地元住民のセンサー
里山暮らしを始めて、気が付いたことがある。里山生まれの人の、蚊に対するセンサーの感度の良さだ。
畑仕事では左右の腰に二丁拳銃ならぬ、2丁の蚊取り線香をぶら下げながら、しばしば蚊に足首や首筋を食われる。だが、道行く人たちと立ち話をしても、里山の住民はほとんど蚊の餌食にはならない。半ズボン、Tシャツといったラフな格好ながら、蚊が止まりそうになると腕を振り、足踏みして追い払う。腕の毛や足のすね毛に触れる感触で、蚊を認識するのだ。
猫の口髭(くちひげ)は、穴を通れるか通れないか測るセンサーの役割を持つ。とび職はダボダボズボンのすれ具合から、足元の状況を知る。里山の人々の体毛は、猫の口髭やとび職のニッカポッカ同様、蚊をちゃんと認識できる感度のいいセンサーになっている。
私はこれができない。だから、蚊はたっぷり血を吸い、満腹になって離れる。認識できるのは蚊が一仕事を終えた数秒後のかゆみだけだ。だからいつも後の祭り。畑から持ち帰るのはかゆみだけという日も少なくない。
これ一つとっても、里山の人々は敬服に値する。人間として持つべき原初的サバイバルパワーを持ち合わせている。このままでは人類6億人が感染し、600万人以上が死去したコロナ禍をなんとかしのげても、1匹の蚊が媒介するウイルス感染症で淘汰(とうた)対象になりかねない。
これは国家の安全保障に関わる危機意識というセンサーにしても、同様のことが言える。日本政府による尖閣諸島の国有化から10年が経過した。この尖閣問題の何が問題なのか、各紙それぞれに危機意識を持つが、感度の違いが鮮明だ。



