幕政に対する不満が背景に
日本一の高さと秀麗な山容の富士山は、古来より火山として恐れられながら、人々の美と信仰の対象となってきた。噴火が鎮まると、修験道(しゅげんどう)の開祖・役行者が富士山を開き、山岳信仰と仏教が習合する独自の信仰を形成していく。山部赤人が「田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」と詠んだように、富士山は美の対象として人々を魅了し、江戸時代には富士講が盛んになる。富士山が日本人の魂に刻印していった精神史を、浄土真宗本願寺派如来寺住職の渡辺英道氏に聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

――富士信仰の歴史は?
富士の山神を祀(まつ)る山岳信仰が始まりで、仏教が流入すると従来の神道と習合した山林仏教として発達し、富士山登拝を目的とした修行者が現れます。平安末期から密教による修験霊場になり、南北朝・室町期から江戸時代には庶民による富士講の時代となります。
富士信仰の代表が浅間信仰で、浅間大神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。浅間神社の祭神が木花咲耶姫命になったのは、『古事記』にある火中出産から「火の神」とされたからで、一方、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされています。火の神・水の神を祀ることで、噴火を鎮めようとしたのです。また、浅間大神は神仏習合(しんぶつしゅうごう)で浅間大菩薩とも呼ばれました。
――富士講の始まりは?
修行者に限られていた富士登山が大衆化したのが富士講です。「富士山開山の祖」とされるのが末代上人で、数百回も登山して富士山頂に大日寺を建て、修験道を組織します。末代は富士山麓の村山に村山修験を成立させ、民衆による富士信仰の始まりとなります。
日本仏教の宗祖ともいえる聖徳太子が、甲斐の黒駒に乗って富士山に登り、駒ケ岳付近で休息したという伝説があります。如来寺には、それに倣って作られた太子の騎馬像が江戸の富士講から寄進され、山が開かれている間、8合目にある寺の祠(ほこら)に安置され、登山者に拝まれていました。それが明治初めの神仏分離で廃止されたのを平成21年に復活したのが「聖徳太子像富士登山」で、毎年8月3日に実施しています。
富士講の開祖は長谷川角行(かくぎょう)で、富士山の人穴で1558年に、四寸角の上に千日間の爪先立ち行をして悟りを開き、富士登山百数十回、断食三百日など数々の難行苦行を行い、106歳で人穴で入寂(にゅうじゃく)しました。
江戸中期、角行から六代目の食行身禄(じきぎょうみろく)らの活躍で富士講は盛んになります。食行身禄が1733年、7合目の烏帽子岩で断食入定(にゅうじょう)して以来、富士講の信者は急増し、「江戸八百八講」と言われるほど盛んになります。身禄の名は弥勒信仰からきたものです。
キリシタン禁令に伴う檀家(だんか)制度の整備で、仏教が政治に取り込まれると、それに抵抗する新興宗教のように盛んになったのが富士講ともいえ、幕政に対する不満が背景にありました。
富士講の人たちは、山開きの陰暦6月1日から21日までの間に選ばれた数人が富士山に登り、山頂の浅間神社に参拝し、それ以外の人たちは各地に分祀(ぶんし)した浅間神社に参詣し、境内の富士塚に登っていました。江戸には50カ所以上の富士塚があり、今も都内に10カ所残っています。
上吉田など富士の登山口の町には御師(おし)と呼ばれる案内人がいて、登山者を宿坊の自宅に泊め、登山前に祭事を行い、今で言うツアーコンダクターを務め、最盛期には上吉田だけで100軒もの御師の家がありました。
富士講の多くは明治の神仏分離と修験道廃止でなくなりましたが、関東では今も続いており、実行教や丸山教、扶桑教など教派神道になったものもあります。
――近年、富士吉田市の如来寺近くにある新倉(あらくら)富士浅間神社が世界的に有名になっています。
それは、五重塔と桜の向こうに富士山を一望する光景が「ザ・ニッポン!」と人気を集めるようになったからです。当初はアマチュアカメラマンの間で知られていたくらいでしたが、次第に海外でも話題になり、コロナ禍前は観光客の8割が外国人でした。実は五重塔は戦没者の慰霊塔で、同社の境内にあるのですが、直接的な関係はありません。神社に五重塔は今風な神仏習合かもしれませんね。
文武天皇の705年に、甲斐国八代郡荒倉郷へ富士北口郷の氏神として祀られたのが始まりで、平城天皇の807年に富士山の大噴火があり、朝廷からの勅使(ちょくし)により鎮火祭が斎行(さいこう)された時、「三國第一山」の称号と御親筆を賜ります。拝殿が富士山の真向かいにある浅間神社はここだけです。
忠霊塔は、日清、日露、第1次世界大戦と太平洋戦争で戦没した市内出身者960余柱(現在1055柱)を合祀(ごうし)するため、市の援護会を中心に昭和33年に富士吉田市長を委員長に慰霊塔建設委員会が設けられ、市民の浄財により昭和37年に完成しました。忠霊塔の周辺は、富士吉田市が管理する新倉山浅間公園として整備されています。公園は神社の境内で、市に貸与しています。
忠霊塔の建設地は当初、富士吉田市新倉地区の小舟山でしたが、地盤が軟弱だったため、現在地に建設されたもので、人気スポットは偶然の産物だったのです。
山梨県甲州市勝沼町にある萬福寺には、聖徳太子を乗せて富士山に駆け上った黒駒の蹄跡(ていせき)が「馬蹄石」として残されています。同寺は太子の命により604年に建立され、古くは法相・天台・真言三宗兼学でした。鎌倉時代、相模国にいた親鸞聖人が「和国の教主」と慕う太子の足跡めぐりで同寺を訪ねた折、当時の住職・源誓が聖人に帰依して浄土真宗に改宗しました。富士吉田市の大原山如来寺も古くは真言宗でしたが、1228年に当時の住職・浄圓が、太子史跡巡りの親鸞聖人に出会い、浄土真宗に改宗、釈浄心という法名を賜りました。宗派が固定的になるのは本末制度ができた江戸時代からです。
【メモ】今年の富士登山では、例年の若者が不参加のため、記者が聖徳太子像を担ぎ上げるお役を頂いた。日本の宗教史を学ぶにつれ太子の偉大さに敬服していたので、像とはいえ太子を背負い、ゆかりの信仰の山に登れるのは最大の幸運だった。もし宗教的天才で政治家の太子がいなければ、日本仏教は生まれなかったかもしれない。さらに太子は皇太子として宮中祭祀(さいし)を行っていたから、日本古来の神道との習合が穏やかに形成されたのも幸いだった。



