世界日報とは

冷戦時代の言論戦

昭和50年(1975年)1月1日、総合日刊紙「世界日報」が創刊された。当時は冷戦時代のただ中であり、ベトナム戦争における米国の敗北に象徴されるように、国際共産主義の脅威が最も高まっていた。国内主要メディアが大きく反米親共に傾斜する中で、ひとり世界日報は共産主義の非人間性と脅威を訴え続けた。
とりわけソ連を「悪の帝国」と喝破したレーガン米大統領が登場してからは、有力姉妹紙ワシントン・タイムズと連携して、言論戦線を強化した。

冷戦時代の本紙報道の主な成果としては、

(1)ベトナム・カンボジア・アフガニスタン難民、ソ連亡命者の取材を通して共産主義支配の悪を追及(75-89年)

(2)侵略を進出と文部省が教科書検定で書き変えさせたというマスコミ報道が誤報であることを証明(82年)

(3)作家・森村誠一氏と日本共産党機関紙「赤旗」の下里正樹・特報部長の著書『悪魔の飽食』の「細菌戦研究のための生体解剖写真」26枚中20枚がねつ造写真であることを暴露(82年)

(4)ソ連亡命将校レフチェンコの証言から日本のエージェント名を暴露(83年)

(5)ソ連潜水艦の消音能力を高めた東芝機械のココム違反技術輸出を糾弾(87年)

(6)北朝鮮亡命船ズダン号救援キャンペーン(87年)――などが挙げられる。

さらにソ連が崩壊した翌92年(平成4年)には、ソ連共産党秘密資料を入手し、ソ連による共産党や社会党に対する資金援助の実態を暴露した。
 昭和60年(85年)にご在位60年、戦後40年を記念して掲載した、昭和天皇の終戦直後の御巡幸の足跡をたどったシリーズ「天皇御巡幸」は多くの人に感銘を与えた。

社説をはじめオピニオンは、一貫して自由主義・反共産主義の立場からタブーを排して言論戦を展開、とくに85年から始まった「ビューポイント」では、各界各層の有識者による定期執筆で自由な言論をリードした。

マスコミ批判

本紙は創刊以来、一面コラム「上昇気流」などで、鋭いマスコミ批判を展開してきた。

それは、東西冷戦時代に自由と民主主義体制下で、言論の自由の最大の恩恵に浴してメディア活動をしているマスコミ、とりわけ朝日新聞に代表される巨大マスコミが、不偏・公正中立を掲げながら、実際には共産主義・社会主義を美化したり、偏向した報道で、国民を誤導(ミスリード)してきたからだ。また、日本では、新聞が新聞を批判することがタブー視されてきたが、世界日報はこのタブーを打破して、新聞批判、テレビなどを含むマスコミ批判を通して責任ある報道を展開してきた。

なかでも、新聞拡張団に潜入して新聞販売の実態を告発した「新聞拡販の内幕/新聞による大新聞告発」(82年)、朝日新聞のイデオロギー的偏向を検証した「朝日新聞の犯罪」(85年)は大きな反響を呼んだ。85年末朝日支局長の「南京事件の日記・写真発見」報道に対し、本紙が“自作自演”と指摘、朝日が二度にわたって異例の訂正を掲載した。

さらに、87年から88年にかけて109回にわたる長期シリーズとなった「最新朝日新聞事情」は、依然として恐喝まがいの販売が改まらない新聞販売、常識を逸脱した行き過ぎた取材などによる問題記事、隠された社内抗争から、生き残りをかけ苦悩する経営などの実態を余すところなく暴露し、大きな衝撃と反響を呼び起こし、朝日新聞研究の決定版と評価された。

共産党容認ムードにメス

不毛の戦後公教育、再生の道模索 冷戦後も日本共産党を追撃

冷戦後、日本の保守的な指導層の中にも共産党容認ムードが浸透する中で平成9年(97年)から10年にかけて「共産党は変わるのか」のシリーズを4部にわたって展開。それをベースに平成10年秋には「要Check!日本共産党『政権参加』近し!」の本を出版した。これが政界をはじめ全国的な反響を呼び、沖縄県知事選でも大きな話題となった。続いて11年には「新日本共産党宣言の正しい読み方」を出版した。

さらに平成11年夏には、日本共産党の不破哲三委員長と作家・井上ひさし氏の対論を本にした『新日本共産党宣言』(光文社刊)を徹底的に解剖批判した「新日本共産党宣言を読む―革命政党の本質は変わるのか」を長期連載。議員会館内でも幅広く読まれ、秋には『新日本共産党宣言の正しい読み方』を出版して革命政党である日本共産党の謀略を指摘し、その危険性に警鐘を鳴らした。前著書(六刷)とともに有識者や政界実力者らから「国民必読の書」などとの高い評価を受けた。

12年には「みんなが知りたい日本共産党50問50答」を出版した。

日本共産党がマルクス・レーニン主義から決別し、民主的な原則を受け入れ、日本の伝統や文化を大切にする真の愛国政党に生まれ変わるまでは、追撃の手を緩めることはできない。