【記者の視点】「信仰継承」か「虐待」か 社会の宗教寛容度映す指標

編集委員 森田 清策

電気や自動車など現代技術を拒み、今も馬車で移動し農業を営んで生活する「アーミッシュ」と呼ばれるキリスト教一派のコミュニティーが米国にある。筆者がその特異な生活スタイルに関心を持ったのは、ハリソン・フォード主演の映画『刑事ジョン・ブック目撃者』(1985年日本公開)を見たのがきっかけだった。そのコミュニティーが舞台になっていたのだ。

彼らの生活を直(じか)に見たくて、ペンシルベニア州ランカスター郡を訪ねたのは米国滞在中の25年ほど前だった。筆者は東北の農村生まれ。馬糞(ばふん)の臭いを味わいながら、馬や牛が農耕機械の代わりをしていた幼い頃の農村風景を思い出し、ノスタルジックな気分に浸ったのを覚えている。

以来、日本で出版されているアーミッシュ関連本を何冊か読んでいる。そこで知るのは個人主義的な生き方を許さない厳格な行動指針(オルドゥヌング)の存在。当然、家にテレビはないし、読む本も聖書などに制限されている。服装にも簡素を保つ基準がある。それらを守らないとコミュニティーから追放される。

それでも、彼らの生活を紹介する日本の著者たちは「人間本来の生き方を実践していて、自らの生き方に自信を持っている」(池田智『アーミッシュの人びと』)と、好意的なまなざしを向けるのがほとんどだ。

さて、この欄でアーミッシュを取り上げるのは、彼らの行動指針が厚生労働省が年末に発表した、いわゆる「宗教2世」虐待対応ガイドライン(Q&A)を考える上で、興味深い視点を与えてくれるからだ。ガイドラインからすると、行動指針の中には明らかに「虐待」とされる事例が数多く存在する。

例えば、ガイドラインは「童話、アニメ、マンガ、ゲーム等の娯楽を一切禁止、宗教団体等が認めたもののみに限る」のは「心理的虐待」とする。一方、日本人が「当たり前」と思っている娯楽のほとんどを禁止するアーミッシュは、子供の将来を考えると、世俗の娯楽に曝(さら)すことの方が「虐待」に値し、それを防ぐためにも質素な生活環境の中で信仰を継承することが必要だと考えているように受け取れる。

また、ガイドラインは「合理的な理由なく、宗教等の教義を理由に高校への就学・進学を認めない」のも虐待とする。しかし、アーミッシュは8年間の義務教育以外は高校も大学にも通わせない。なぜなら、知識が過剰になると、人間は傲慢(ごうまん)になり「神への感謝」を失うからだという。

筆者は「一理ある」と、その知恵深さを知り自らを省みると同時に、厚労省に運用の難しいガイドラインを作成させた日本の社会と、アーミッシュを受け入れる米国との宗教文化の違いを考えるのである。高等教育を拒否する彼ら独自の教育システムについては、米連邦最高裁が1972年、正式に許可している。それだけ、米国社会は少数派宗教に寛容というわけだ。

「宗教2世」当事者が宗教上の決まり事を虐待と認識するかどうかについても、所属する国家の宗教に対する寛容度が影響する。20世紀初め、5000人だったアーミッシュの信者数は現在、35万人に増えているが、それは宗教に寛容な文化の中で、コミュニティーを離脱する若者が少ないからだ。つまり、信者の子供たちはオルドゥヌングを「虐待」と認識していないということになる。

日本では今、“宗教2世虐待”に関心が高まっているが、宗教についての寛容度の低い社会では、その影響を受けて当事者に被害者意識が生まれやすいという事実は虐待問題と向き合う上で重要視されるべきだろう。