「みだりに叫ぶな」と杉原氏
この経緯を振り返ると、質問権行使が度重なっているにもかかわらず、いまだに解散命令請求を出すかどうかの結論を出せずにいる状況を、櫻井はどう分析しているのかを知りたくなる。論考はそこには触れない。慎重に手続きを踏んでいると評価するのだろうか。
この点、杉原誠四郎(元武蔵野女子大教授)は論考「『統一教会』に信教の自由はないのか」(「Hanada」5月号)で明確に述べている。
「旧統一教会の組織としての教団をいささかも弁護するものではないが」としながら、「そこで信仰している信者の信仰の自由は厳粛なものであり、そしてそれは尊重されなければならないのは明らか」と強調。その上で、「だとしたら、その信仰をしている人たちの意向をいっさい無視して、濫(みだ)りに解散を叫んではならない。刑事犯罪を犯してもいないのに、信仰の自由を享受している人たちのいる宗教団体に向けて、安易に解散命令などは出してはならない」と訴えた。
さらに、元信者2世の中には「自分たちのように苦しい思いをする人を二度と出さないように、旧統一教会を解散させてほしい」という主張がある。しかし、彼らが訴える苦しみについては「それが真実なら十分に理解を示さなければならない」が、「これでもって直(ただ)ちに宗教団体の解散に結びつけて考えてはならない」と述べている。
教団の中に逸脱例があれば改善させるべきだ。しかし、それと解散命令請求は分けて考えるべきだというのである。これは杉原が今だから述べる主張ではなく、元首相銃撃事件以降、メディアによる教団バッシングが巻き起こった当初からの一貫した立場だろう。
櫻井たちの声明に欠けていたのはこの視点だった。彼の論考からも、宗教団体の問題点についての社会的な批判の必要性については説くが、信者の信仰の自由を重く受け止める姿勢は伝わってこない。これが拙速な声明発表につながったのだろう。
ただ、櫻井の主張にも共感する部分がある。「統一教会の人たちとそうでない人たちが相互に理解するための対話のテーブルを設けるべきだ」と指摘した点だ。しかしながら、そのためには条件が必要である。櫻井は「私も解決を迫られている問題があるケースに限り、『カルト』と呼んでいる」としているが、信者側に立てば、所属する教団を「カルト」扱いし、また信仰を「マインドコントロール」の結果と考える人間との対話は難しい。研究者ならこのような多義語を使用し、教団と信者に「反社会的」とレッテル貼りを行うことは、対話の妨げになるだけだということを理解すべきではないか。
そして、櫻井をはじめとした研究者たちに対して、筆者が抱く最大の違和感は、果たして彼らは十分なフィールドワークを行ったのかという点だ。声明は教団の問題点として「正体を隠した勧誘」を挙げた。島薗も「教団の正体を隠した伝道こそ信教の自由を侵害している」(朝日新聞昨年12月1日付)と語った。その根拠として2001年6月の札幌地裁判決を挙げた。しかし、現在の信者を対象としたフィールドワークを行った形跡はうかがえない。これでは教団の現状は分からない。
櫻井は論考で過去に「統一教会の裁判に関わった元信者の人たち数十名に長時間のインタビューを数年間」続けたと述べた。また、論考は10年以上前の話が多く、現役信者や親の信仰を受け継ぐ2世信者と十分対話を行ったと読み取れる内容はない。教団も変わる。過去の歴史を知りつつも、教団の現状を知るためのフィールドワークを行ってこそ「研究者」だろう。(敬称略)
(森田 清策)



