沖縄返還の日米密約 密かに情を通じ入手した文書、報道倫理には誰も触れない

「取材の自由」に見解

裁判で西山氏は「知る権利」を主張したが、最高裁は78年5月にこれを退け有罪が確定した。判決は国家機密と報道・取材の自由の在り方について次の見解を示した。

①報道のための取材の自由は憲法21条(表現の自由)で尊重される。②取材行為は国家秘密の探知という点で公務員の守秘義務と対立拮抗(きっこう)し誘導・唆誘的になることもあるので報道機関が取材目的で秘密漏示を唆しても直ちに違法ではない。③取材の手段方法が法秩序全体の精神に照らし是認される限り正当業務行為といえる。

要するに取材活動が誘導的で唆すようなことがあっても、それが真に取材目的なら報道の自由に最大限に配慮して取材活動の正当性を認めるとしたわけだ。では、どんな場合が違法なのか。

判決は「(取材の)方法が刑罰法令に触れる行為や、取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躙する等、法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認することのできない態様のものである場合には正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びる」とした。

西山氏の場合、女性事務官の人格の尊厳を著しく蹂躙(じゅうりん)し、正当な取材活動の範囲を逸脱しており「知る権利」の論外となる。これが西山事件の教訓である。

だが、西山氏の訃報でこれに言及した新聞は1紙もなく、「報じた」と書くことで結果的に教訓を握りつぶした。当事者の毎日の1面コラム「余禄」(28日付)は、最高裁判決の取材の正当性が認められる箇所だけを書き、肝心の違法性には一切触れず、「起訴状は『情を通じて』と書いた。取材源の秘匿を守れず、小紙も『反省、自戒』を表明した」と妙なことを言っている。

これでは人格蹂躙への反省がまったくなく、検察がまるで悪者だ。おまけに報じてもいないのに「取材源の秘匿」とは支離滅裂である。