原発の「株主代表訴訟」の判決で、企業の姿勢問う毎日とNW日本版

経営者に覚悟が必要

ニューズウィーク日本版8月2日号「経済ニュース超解説 東電判決が日本の経営者を変える」で、経済評論家の加谷珪一氏は、株式代表訴訟について「東電の裁判と聞くと、原発事故の被害者が賠償請求を行っているとイメージする人も多いだろうが、この裁判は全く異なる」「旧経営陣が経営者としての義務を怠り(中略)会社に対して多額の損失を与えたとして、会社への賠償を求めた(訴訟)」であり次のように論じている。

「今回の判決によって、無責任な経営を行えば、経営者個人の責任が追及されるという、諸外国では当たり前の仕組みが日本でも適用されることが改めて明確になった。経営者に厳しくすると、成り手がいなくなるとの指摘があるが、全くの逆である。一連の責任を引き受けられる覚悟と能力を持った人材は存在しており、経営者に厳しい社会制度そのものが、有能な人材の選抜システムとして機能する」というのである。

先の高村氏と加谷氏のどちらの論が正当か、少なくとも株式代表訴訟の意義、その影響については加谷氏が的を射ている。

今日の企業経営は、その会社の利益、経済価値だけに固執していては成り立たなくなっている。むしろ企業の社会的価値を最大化する方向、利潤の目標を掲げてこそ企業は存在し得る。各電力会社とも、原子力エネルギーの社会的ニーズを承知だからこそ、福島第1原発事故後も原発を何とか再稼働させようと当局にその許可を求めて苦心しているのである。

故に高村氏の「まともな経営者なら原発から手を退かざるを得なくなった」というのは現実と照らしても間違っている。高村氏の論は国と企業と国民の共通利益を引き裂く方向ではないか。

国は技術開発先導を

では、国に責任がないと言えば、違う。1956年、原子力基本法が制定され、エネルギー政策の中心に原子力を据えた。国はその後、長期的な展望をもって、営々として原子力の技術開発に努めていくべきだった。ところが60年代は核融合技術について楽観的な見方がされており、その後10年ぐらいほどでメドがつくと言われていた。しかし、それほど単純な問題ではなかったことが、物理学者の間で言われると、開発の意欲も急に削(そ)がれた。

また高速増殖炉なり核燃料サイクルは新しい科学技術に対するチャレンジだから、完成させていく気構えが必要だったが、増殖炉開発は挫折、核燃料サイクルはいまだ実現していない。「日本は歴史的に、自らが先頭に立って文明を構築する機会を持たなかったせいで、少しの失敗で挫折してしまう。世界一の技術大国に挑戦すべき」とは、ある物理学者の弁だ。

(片上晴彦)