外国産「個人主義」を輸入し、日本では歪(いびつ)に
社会の個人主義化は他国でも見られる現象だが、日本で孤独感を抱く若者が増えているのは、米国のようにもともと個人主義の文化を持つ国と違って、日本は敗戦によって、個人主義を「輸入」したことが大きく影響している。個人主義の輸入を象徴するのが戦後憲法と言える。
石田が指摘する「いびつな個人主義」の中で、孤独という負の面がネットによって増幅され、それが凄惨な犯罪の動機を生み出しているように、筆者には見える。ソーシャルメディアの問題点を指摘するのは、総合研究大学院大学学長の長谷川眞理子(人類学)だ(「Voice」の巻頭言「ソーシャルメディアが助長する分断」)。
一般的にはソーシャルメディアは人と人をつなぐツールと考えられているが、「ソーシャルメディアの発達は、内集団と外集団の区別と差別を解消する方向で役に立っているのだろうか? 私は違うと思う」と明言。
そして「ソーシャルメディアは、いまのところ、かえって社会の分断を助長するように働いている。それは、ヒトという動物が、内集団と外集団の区別と差別に敏感な動物であり、そのような感情を安易に行動に移せるようにした技術がソーシャルメディアだからなのだ」と訴えた。
では、加藤容疑者や山上容疑者は、いびつな個人主義とネット社会の犠牲者なのだろうか。イスラム思想研究者の飯山陽(あかり)はそれに異議を唱えている(「偽善者に騙されるな 『弱者に寄り添う』という偽善」=「Hanada」9月号)。
山上容疑者については、彼の母親が宗教団体に入り多額の献金を行っていたことなどから、その団体を恨んでいたと供述している。そこで、一部メディアには同容疑者を「かわいそうな弱者」で犠牲者なのだと見る傾向が出ている。しかし、それを飯山は「いわゆる『リベラル』なメディアや『知識人』の常套(じょうとう)手段」であり「論点ずらし」だと喝破する。
そして「殺人者やテロリストを弱者に仕立て、同情を呼び込み、悪いのは社会だ、時代だと論点をすり替え、世論操作をしようとする偽善者に騙されてはならない」と警告する。
今、リベラルなメディアを中心に、容疑者が恨みを抱いた宗教団体に対して「カルト」のレッテルを貼って「外集団」扱いし、その宗教団体へは何を言っても、何をしても許されるという排除の論理がまかり通っている。これは宗教弾圧につながる危険な動きである。孤独を抱える若者の犯罪防止と、容疑者を「弱者」と扱うことはまったく別次元の問題、と峻別(しゅんべつ)することが重要なのだ。
(森田 清策)
(敬称略)



