50年前の判決は覆るか
この言葉から、中絶反対派は堕胎を「殺人」と捉えていることが分かる。加えて、「一九七三年以来、少なくとも六千三百万人の胎児が子宮内で解体、切断されてバラバラになり、掃除機のような機械によって出された。六千三百万人はナチスが犯したユダヤ人大虐殺より多く、まさに『ホロコースト』の形容詞がマッチしている」と、日本人では躊躇(ちゅうちょ)するような表現で中絶を非難するところにも、彼が篤実なカトリック教徒であることがうかがえる。
日本にも「子は天からの授かりもの」「子宝に恵まれる」という言葉があるように、妊娠を人知を超えたものと捉える伝統がある。しかし、なぜ中絶の是非をめぐる論争が起きず、選挙の争点にもならないか。簡潔に言えば、米国のように人の生命は受精とともに始まると考える伝統的なキリスト教文化の社会ではないから、ということになろう。と同時に、一神教文化と違い、「和」を重んじ激しい対立を生むような論議は避けたがる国民性も影響しているように思う。
前述したように、生命は受精の瞬間に始まり妊娠のいかなる段階における中絶も「殺人」で反対というのが「プロ・ライフ」の特徴。この立場は伝統的なカトリック教徒だけでなく、プロテスタントの福音派なども同じで、中絶反対派の一大勢力を形成している。
このため、彼らにとって「ロー対ウエード判決」は「胎児の人間性」を否定した“とんでも判決”ということになる。その一方で、米国では、伝統的なキリスト教の価値観が薄れリベラル・左傾化が進む。その象徴が同性婚の合法化と言える。
中絶を「女性の権利」と認めた「ロー対ウエード判決」でも全面的に禁じてはならないとしたのは妊娠12週までだ。24週までは母体の健康維持のための規制を認め、それ以降は母体の生命・健康を守る目的以外は禁止している。
日本ではかつて、中絶の禁止は妊娠28週以降で、それが24週以降になり、現在は22週以降だ。理由は未熟児医療の発達で、小さい胎児を母体外に出しても生きられるようになったからだ。22週は人間で、21週は人間ではないというのは妙な話だが、そこを突き詰めることをしないのが日本人らしいのかもしれない。
また、母体保護法は22週以前で「妊娠の継続または分娩が、身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれがある」場合、そしてレイプの場合は、配偶者の同意を得て中絶を行うことを認めている。
わが国では年間中絶件数は減少傾向にある。厚生労働省の衛生行政報告書によると、女子人口1000人につきの中絶率は1955年に50・2件(総件数117万件)だった。それが2017年度には6・4件(16・4万件)に減っている。ここでよく問題となるのは「経済的理由」が拡大解釈されて、安易な中絶を増やしていることだ。
これに対して、米国は2019年で11・4件。かつて「堕胎天国」と言われた日本よりも多くなっている。筆者は、日米両国で、中絶はもっと抑制されるべきだと考えるので、「ロー対ウエード判決」が覆ることをモーガン氏同様、期待する。覆ったからといって、すべての中絶が禁止になるわけではなく、州に決定権が委ねられることになるのである。
ただ、伝統的なキリスト教の価値観の強い州では、妊娠6週目以降は違法とする動きを見せている。レイプや近親相姦(そうかん)も例外とはならない。どんな妊娠でも「神様からの授かりもの」ということなのだろうが、この考えを受け入れる日本人はほとんどいないはず。論考ではこの問題には触れなかったモーガン氏に、自身の考えを聞いてみたかった。
(森田 清策)



