左派メディアの9条を盾にした圧力で苦難を強いられたPKO30年

殉職した文民警察官

だが、反対派の圧力で国際貢献活動が何度も煮え湯を飲まされたことは想起しておきたい。1992年の初のカンボジアPKOでは選挙監視のために文民警察官が派遣されたが、彼らは防弾ヘルメットも高性能防弾チョッキも着用・携行することができなかった。「武器の輸出に当たる」として禁止されたからだ。

これらは文民警察官が帰国時に持ち帰れば済む話だが、左派メディアの反対論に押され、当時の通産省は「文民警察官が現地で売ると武器輸出に当たる」との屁理屈で禁止した。警察官は密輸犯に見立てられたのだ。高田晴行警視が殉職したが、故・佐々淳行氏(初代内閣安全保障室長)は「9条に殺されたのも同然」と憤慨している(『諸君!』2008年2月号)。これを「左派メディアに殺されたのも同然」と言い換えてよい。

カンボジアの自衛隊派遣では機関銃を何挺所持させるかで大論争となった。社会党の岩垂寿喜男衆院議員が「2挺は武力の行使になる」と猛反対したからだ。結局、1挺のみ所持が許された。

02年から2年間、陸自部隊が東ティモールの国際平和維持業務に就いたが、東ティモール平和維持軍司令官のカールディン・ユソフ中将(マレーシア軍)は「(日本の基準は)国際社会の常識とはかけ離れており、日本の規定は今後、考慮が必要だろう」と指摘している(読売03年1月4日付)。それでも左派メディアの反対で非常識を余儀なくされた。

03年から09年までのイラク人道復興支援への自衛隊派遣では自衛隊員の安全を期すため戦車を持っていくべきではないかとの論議もあったが、海外派遣が「侵略」でないことを示すために取りやめ。また携行する武器の精度を詳細に公表し、現地に構築する宿営地の見取り図まで明らかにさせられた。テロリストを利する愚かな行為を左派言論の圧力で行うしかなかった。