中央ア“反旗” 露に衝撃 田中氏
米外交 底の浅さ露わに 西川氏

西川 全く同意見だ。4時間を超える会談でおそらくプーチン氏はそういうことを強く言った。そこで習近平氏は、「このままやったら本当に危なくなる。経済援助はするから、やはり引き際をそろそろ考えないと共倒れしちゃうよ」ということを相当強く言ったのではないか。プーチン氏は習氏には心を許しているので、じっと聞いて「それは分かるけど今やめるわけにはいかないんだ」と。そういう腹を割った話し合いはあったのではないか。
田中 まさにその点だ。そこはオープンにできないから含んだまま別れたということだと思う。でもプーチン氏と習氏はいい関係が続いているから、ユーラシア大陸の中で権威主義的体制をつくっていこうという2人の暗黙の了解みたいなのがあって、そういうところで最終的には蜜月を装って収まっているのではないか。
西川 だからもし、もっと戦局が苦しくなると、中露の連携で場合によっては、和平の動きが出るかも分からない。一方、米国は援助するだけで全く和平に向けた動きを見せない。バイデン政権の無策で結局、中露にポイントを取られてしまう可能性もある。その危険を今回の会談の本音の部分から早めに読み取って米国は動かないといけないのではないか。
田中 その通りだ。
――田中先生は中央アジアの専門家でもあるが、2月に米国のブリンケン国務長官がカザフスタンを訪問して中央アジア5カ国の外相と会談し、資金援助を表明するなど、これまでになくテコ入れする動きがあった。これが習氏の訪露に何らかの影響を与えたのか。
田中 2001年の9・11テロが起こった後に、米軍が直接キルギスとウズベクとそれからタジキスタンに入り、最終的にはキルギス(マナス空港)に米軍が500人くらいの海兵隊を置いた空軍基地を約13年間確保したことがある。そこで裏側から中国とロシア側にプレッシャーを与えようとしてきたが、結局それは現地の反対を受けて、徹底することができなかった。その後しばらく米国にとって外交的空白地帯となっており、2015年に日本に倣って中央アジア5カ国と「C5+1」という協力体を創ったが、あまりパッとした成果がなかった。ところが今回ウクライナ戦争が起きて、中央アジアの国々がロシアとの間に一定の距離を置きだした。

今回のウクライナ侵攻で、ロシアはロシア人ないしはロシア語を喋(しゃべ)る人たちの救済のためという名分を掲げている。例えばカザフスタンでロシアと国境を接する北カザフスタン州などは人口の52%はロシア人が占めている。今のような論理からすると、北カザフスタン州に自治権を持たせるという名目でロシア軍が入ってくるということが危機感として分かる。だから一時はロシアと緊密な関係にあるとみられたトカエフ大統領も、この人は私の昔からの友人だが、ロシアのウクライナ侵攻に対してはすごい勢いで反対している。経済的弱者のタジキスタンの大統領も、ロシアの属国のように見ないでくれとまで言っている。ブリンケン国務長官の訪問は、そういった中央アジアのロシア離れが起こっているタイミングに慌てて突っ込んでいった面がある。多少の焦りも含めていいタイミングだったとは思う。
――中央アジアはソ連時代から「柔らかい下腹」と言われていた。そのロシア離れは、かなり深刻な問題ではないのか。
田中 ロシアは1991年のソ連邦崩壊の時にその地域を手放したが、本当は手放したくなかった。ソ連邦が崩壊すると、「柔らかい下腹」の中央アジアやコーカサスの辺りから西側の勢力によって蝕(むしば)まれるということをものすごく気にしていた。それで独立後もCIS(独立国家共同体)など政治的にはその地域をまだ抱えることに成功していた。そこがウクライナ侵攻で大統領たちが公にプーチン氏に反旗を翻すような言葉を言うようになったということは大変なショックだったと思う。一度は退いた米国の勢力がもう一回入ろうとしていることには、中露とも大きな衝撃を受けた可能性がある。
西川 米国は、ソ連のアフガニスタン侵攻の後、CIAを通してムジャヒディンに武器援助をした。しかしソ連が撤退した途端、米国はアフガニスタンへの関心を無くし、関与しなくなった。9・11後のアフガン戦争で中央アジアに入ったが、これも行き詰まって結局立ち消えになった。米国の外交の粗さというか、情けないところが出た。長期的戦略的な視点を持ち地政学的な要衝の中央アジアを押さえ続けておれば、中国の膨張が進んできた際にもそこを拠点に対抗策が打てるのに、目先のことしか考えずパッと他に行ってしまう。英国では考えられないような米国外交の底の浅さを感じる。
田中 プラグマティズムの持つ軽薄さみたいなものがある。
西川 この地域は中国とロシアの影響が濃いため、簡単に親米にはならないが、それでも気長にコミットを続け、開かれた自由の息吹を与えていくような外交をやるべきだと思う。ブリンケン国務長官が1回ぐらい訪れた程度ではほとんど影響力は発揮できないだろう。むしろ中露両国に警戒感を植え付けるだけだ。日本のできることにも限界はあるだろうが、米国の欠点を日本が補う格好で、中央アジアへの継続的な関与に動くべきだろう。そうした取り組みが日本外交の幅の広さ、層の厚さに繋(つな)がるのではないか。
――その問題はまた改めて論じていただくとして、その前に岸田首相のウクライナ訪問をどう評価するか。
田中 実は先日、私は駐日ウクライナ大使と会って、いろいろ彼の話を聞いた。もちろんウクライナにとっては、岸田首相が来てくれて、日本の立場を鮮明にしたことを高く評価しているが、タイミング的にも、同じ日にモスクワに習近平氏がおり、キーウには岸田首相がいたという図式が彼らの危機意識にピシャッとはまっていた。岸田首相としてはG7の議長国として行っておかねばならず、それがたまたま習氏の訪露と重なったのだと思うが、結果こういう形で日本の姿勢を示せたのは評価すべきだと思う。
西川 G7の他の国の首脳がみんな既に訪問を終え、一番最後になってしまったと言われているが、むしろG7広島サミット議長国の日本がいわば殿(しんがり)として「最後に出向いて締めたのだ」と捉えればいいではないか。負け惜しみのように聞こえるが、各国を纏(まと)め総括する議長国の立場を考えれば、結果的には絵になったウクライナ訪問だったと言える。
――結果的に日本は東アジアでの権威主義的な国の代表中国に対し自由を尊重する国の代表として見られた。想定外の成果だった。共同声明の中で中国を念頭に、東、南シナ海への深刻な懸念を入れたのも意義があるのではないか。
田中 日本がそういうふうに見られる中で、世界の期待に沿ってG7の議長としてどういう裁定をし、戦後の方向性を提示できるかが問題だ。また復興支援などある意味で既に重荷を背負った部分もある。この点も含めてよく議論しておかなければいけない。
西川 一方で中国とロシアの独裁者が会って上から目線で米国のウクライナへの武器支援に反対と言っていた時に、岸田首相がロシア軍による住民虐殺が行われたブチャの集団墓地を訪れ、平和を取り戻すと言った。この対比は、ゼレンスキー大統領との首脳会談や共同声明の発表以上に日本の存在感を世界にアピールするポイントになった。
田中 誰のアイデアか分からないが、ブチャへ直接行った。現場へ行くというのは本当に大事なことで、後々の発言力に大きく響く。そこは評価してあげた方がいい。
アジア的共感外交の展開を 西川氏
小国にこそ優れた外交官を 田中氏
――今回、日本の外交が中国と対比的に注目されたが、本来日本はそれぐらいの外交を展開すべき国だ。そこで日本の今後のユーラシア、特に中央アジアにおける戦略外交はどうあるべきか。
田中 私は日本の中央アジア政策をもう一度見直すべきだと思っている。私は1993年にIMF(国際通貨基金)の派遣で中央アジアに金融政策・行政アドバイザーとして行ったが、90年代はIMFや米国の要請があって日本も巨額のODA(政府開発援助)を中央アジアの国々に出していた。90年代前半、拠出額は日本がずっと1位。でもだんだんその熱が冷め、国内の財政状況もあってODAの額を減らすと、日本の立場がずっと後退してしまった。90年代は一流ホテルの前の国旗掲揚台には必ず日章旗があった。ところが2000年に近くなった頃からどの中央アジアの国に行っても日本の国旗はなくなっていた。ODAが減っていくと金の切れ目が縁の切れ目みたいに、商社員も含め人材を引き揚げてしまった。
今、例えばウクライナ戦争の中で中央アジアに日本のプレゼンスがもう少し高まっていた方が、中露とトラブルを少なくするという意味も含めて、日本の立場がより安定的になるような状況が生まれるだろう。そこをもう一度、私が住んでいた頃の状況をもう一度見直してほしい。当然、一定の資金も必要だが、より大きな問題としては人材の派遣や文化交流をもっと深めるとか、そういうことをもう一度考えるべきだ。
親日国の多い中露緩衝地帯、つまりモンゴルから中央アジア、南コーカサスそしてトルコまで10カ国を大事にするという発想がかつて日本にはあった。例えば石原莞爾や北一輝が構想した昔の蒙疆政策にもそういう発想がある。彼らは軍事的な観点に偏っていたが、地政学的安全保障を考える上では参考になる。そういった先人たちの目の付けどころもよく踏まえて、中央アジア外交をやり直す時だ。
西川 全く同意見だ。先生の挙げられた10カ国。それは私が1月のビューポイントで「マルコポーロ戦略」と名付け、日本が戦略的な連携を深めるべきだと論じた国と一致する。ユーラシア内陸部に対する米国の戦略的関与が覚束(おぼつか)ない以上、アジアの一員である日本がこの地域の民主・自由化に向けてコミットしていくべきだ。もちろん日本外交の基軸は「自由で開かれたインド太平洋」構想などを通した海洋諸国家との連携協力にあり、中央アジアやイスラムとの連携がそれに代わるものではない。だが人間の体も国の外交も同じで、一方だけに深く傾斜するとバランスが崩れる。日本独自の外交領域を広げ、独自性を発揮しつつ外交のバランスを取ることも重要だ。日韓の連携だけでは少し弱い。より広いスケールでユーラシアを捉え、中国の周辺諸国や中央アジアからヨーロッパへと延びる線上に位置する国々と深い関係を築き、中国の膨張を阻止する。ASEAN(東南アジア諸国連合)もこの連携網に加えるべきだろう。
戦後、日本人の西域や中央アジア等ユーラシア内陸部に対する関心があまりにも低いことは残念だ。明治維新の後、能海寛や河口慧海を代表格にチベットやモンゴルに赴いた青年がたくさんいた。昭和に入ると防共回廊構想が生まれ、関東軍などの支援も受け、例えば西川一三らが大陸奥地まで入り込んでいる。中露の離反を促す上で中央アジアの戦略的価値は今日も高いものがある。目先の利益ばかりに拘(こだわ)らず、まずはユーラシア内陸部への日本人の関心をいま一度高めるあたりから手を付け、時間がかかってもよいからじっくりこの地域と付き合う姿勢でいくべきだ。
中国の外交は、米国のように自由主義か専制主義かと二者択一を迫らない。イランとサウジが長い戦いに疲弊しているところに目を付け、現実的なアプローチで入り込んだ。今、ウクライナとロシアもへとへとになっている。中国はここでも、いずれが正義でいずれが悪かといった価値観を出さずに妥協点探しや和平の仲介に動く可能性がある。二項対立的な発想に執着しないのは日本も同じだ。中国にできて日本にできないことはない。アジア・ユーラシアの諸国と関係を深めるためには、ただ欧米の真似(まね)をして価値観外交を振り回すだけではなく、お互いが有する多様なものを包み込むアジア的な共感や包含の意識を活(い)かし、日本外交の存在感を高めるべきではないか。それこそが日本の外交にアイデンティティーをもたらす鍵になるのではないかと思う。
――対露制裁にしても棄権したり反対したりする国が結構ある。自由や人権などの価値観は根底に持ちつつも、そういう国との外交の場では、価値観の押し付けは慎まないといけないということか。
西川 日本は欧米に追い付き追い越せを目標にしてきたから、欧米流の価値観外交をやらないといけないという声が多いが、中国はそうでない。それは中国が欧米と違う秩序をつくろうとしているからだと思う。日本も本音はどうかといえば中国と似ていると思う。白黒をはっきりさせず仲良くやるのが日本のお家芸なら、アジアの国に対してそうした日本的発想で付き合ってもいいのではないか。
田中 中央アジアのことで言えば、昔は若い人も、大陸浪人風に「東京では俺の能力は生きないけども大陸行って生かそう」という夢もあったし、その夢に乗っていろんな人が、外交官を含め相当型破りで優秀な人が出て行った。そういう人が実は戦後の日本の国際化にものすごく役に立っている。そういう人が満州に非常にたくさん生まれている。戦後、日本の外交官や商社マンの中で大を成した人たちには大陸浪人の息子や兄弟が関わっている。国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんのお父さんも中国経験の外交官で、緒方さんがどうしてああいう生き方をしたかというと、大陸経験があった。そういう人材が育つような日本の外交官養成システムとかそういうことをもう一回考え直さないといけない。
西川 私が国際政治学を習った先生の多くも戦前、大連等大陸でお育ちになった方が多く、国際問題に対する発想や学問のスケールが非常に大きかった。今の日本は国際化したとは言うが、戦前は欧米だけでなく、例えば内南洋やユーラシア大陸に雄飛する青年も数多くいた。戦前の日本の方がある意味ではグローバル化していたと思う。残念なことに海外に乗り出そうとする若い息吹が、敗戦によって侵略の一言でその芽を摘まれてしまった。欧米や東南アジアだけでなく、中央アジアやイスラム世界に興味を持ち、広大なユーラシアの内に飛び込んでいくような若い人たちを増やすことからまず手を付けないと日本の将来はないと思う。
田中 あと外交官の養成・配置の問題。大国に挟まれた小国の大使ほど実は大物を当てないといけない。一人の個性の影響力が強いから。例えばロシア大使よりカザフスタン大使の方が人格的に優れた人材を送り込もうというような発想の転換が必要だ。本国からの訓令の枠を越えて現地リーダーにアドバイスできるような多少変わり者の方が日本の国益に資することはあると思う。外交官試験の成績が良く、そつなく事務をやるとか、欧米流の真似だけしているというのではいけないのではないか。



