植民地化防いだ「空の神兵」「空の神兵」顕彰会会長 奥本 康大氏に聞く

日本の歴史に自信と誇りを

大東亜戦争の正しい理解を

落下傘部隊の奇跡伝える

大東亜戦争(太平洋戦争)緒戦、インドネシア・スマトラ島南部のパレンバンで旧日本軍の落下傘部隊がオランダ軍に大勝利を挙げた「パレンバン奇襲作戦」。巨大な石油基地と飛行場を制圧した部隊は、その奇跡的な戦果から「空の神兵」と呼ばれた。「空の神兵」顕彰会は同部隊を後世に語り継ぐため活動している。顕彰会の奥本康大会長に話を聞いた。(聞き手=亀井玲那)

 おくもと・こうだい 1950年9月、大阪府生まれ。75年4月、出光興産に入社し2006年まで勤める。現在は保護司、調停委員として活動する傍ら、講演活動などを行う。著書に『なぜ大東亜戦争は起きたのか? 空の神兵と呼ばれた男たち』(共著・高山正之)、『正伝 出光佐三』など。

――空の神兵とは。パレンバン奇襲作戦はどんな戦いだったのか。

大東亜戦争開戦直後、資源確保のため南方作戦が始まった。資源の宝庫であるジャワ島を目指す際に、制圧すべき要衝となったのがパレンバンだった。パレンバンには世界屈指の石油基地と要衝となる飛行場があり、このうち特に重要なのは飛行場だ。当時は航空戦の時代に移行しており制空権を確保することが勝利につながる。日本は飛行場を押さえながら南下して行き、まずシンガポールとパレンバンを制圧しなければならなかった。

シンガポールからジャワ本島までは距離があり、中継基地としてパレンバンを押さえる必要があった。そこでパレンバンの飛行場と製油所の二つを押さえる作戦が取られた。これがパレンバン奇襲作戦だ。

この時、約340人の落下傘部隊が、オランダ軍が守備している所に飛び降りていった。相手は4倍以上の兵力があり重火器も持っている。これに対して当時の技術では落下傘部隊は小銃と手榴弾(しゅりゅうだん)5発ぐらいを持って降りるのが精一杯で、ほとんど丸腰だった。機関銃、小銃を物量箱に入れて別の落下傘で投下したが、その物量箱をなかなか回収できず、小銃と手榴弾で戦った。

そもそも落下傘部隊は奇襲作戦であり、相手の度肝を抜くのが目的だ。奇襲を受けて敵が慌てふためいているところに陸上部隊が来て攻撃を仕掛ける。これが落下傘部隊の戦法だ。だがパレンバンでは味方陸上部隊の到着前に落下傘部隊が完全制圧してしまった。嘘(うそ)のような話だがわずか1日で制圧することができた。まるで神業のような奇跡の戦果だ。「空の神兵」という名前が付いたのもうなずける。

――顕彰会ではどのような活動をしているのか。

基本的には、日本の戦争の正しい歴史を皆さんに知ってもらうことだ。日本が侵略戦争をして近隣諸国に迷惑を掛けたという戦後史観だけが一人歩きしており、パレンバンで石油を確保したことで日本が自滅の危機から脱することが出来たことを知る人は皆無に近い。これは非常に残念なことで、それを伝えることがメインの活動だ。作戦が敢行された2月14日を「パレンバンデー」として、毎年集会を開いており、今年は6回目となった。

「空の神兵」について、戦後の人はほとんど知らない。どんな戦いだったのか、大東亜戦争においてどんな価値があったのかも知らない。それを払拭(ふっしょく)するための活動でもある。

――活動を始めたきっかけは。

父がパレンバンの落下傘部隊で殊勲を立てた一人だったが、親戚から話を聞くだけで父本人から戦争について聞くことはほとんどなかった。ところが10年前に父が亡くなった後、遺品整理で、戦時中の記録をまとめた手記が多く出てきた。数年後、パレンバン落下傘部隊について多くの書物を上梓(じょうし)されている高山正之先生に相談したところ、貴重な第一次資料だからそのまま本にするのはどうかと提案があった。今から5年ほど前に1冊の本にまとめ、高山先生との共著として出版された。

父は当時22歳で、パレンバン作戦の後、昭和天皇に単独拝謁(はいえつ)を賜る名誉を得た。昭和天皇実録の第9巻にも記録が残っている。これは戦前では考えられないことだ。パレンバンでの戦闘はそれほどの成果で、昭和天皇は大変喜ばれた。

というのも、昭和天皇は大東亜戦争を振り返って「石油で始まり石油で終わった」とご述懐されている。石油がなければ戦うことができず、1年くらいで降伏して米国の軍門に下るのが目に見えていた。パレンバン作戦の勝利で当時の年間消費量を上回る大量の石油を手に入れることができ、それ以降の3年6カ月の戦争を継続でき、結果的には米国の植民地になることが回避できた。

――映画化の構想もあるということだった。

お金も掛かるが、目標は大きく。多くの人に知ってもらうためには映画のようなものが必要かなと思っている。今の日本は、戦後の占領教育により自虐史観を持っている人があまりにも多い。もしも日本が侵略されるようなことがあったとき、武器を持ち戦うことができなければ侵略されるがままとなる。米国が日本を守ってくれるなどと考えるべきではない。自国は自分たちの手で守ることが世界標準であり、そのために国民が日本の歴史に自信と誇りを持つことを促すことも活動の一つだと思っている。

――出光興産OBということで創業者の出光佐三についての講演活動もされている。

出光佐三は国のために生きた人だ。出光佐三をモデルにした小説も有名だが、あくまでも小説なので、九州の荒くれ商売人の印象が強くなっている。実際には一身投げ打って国のために尽くした愛国者だった。敗戦時には御年60歳だったが、日本を再建するため立ち上がり、敗戦の詔勅(しょうちょく)の2日後には社員に「今から再建に取り掛かれ!」等と訓示した。昭和天皇は出光佐三の逝去を悼み「国のために ひとよつらぬきつくしたる 君また去りぬ さびしと思ふ」と御製(ぎょせい)を詠まれた。御製を詠んで戴(いただ)いた民間人はほとんどいない。

昨年は没後40年だったこともあり、出光佐三の生涯を本にまとめた。日本精神を貫き、国家のために貢献することの重要性を出光佐三は終生、訴え続けた。その生きざまは多くの経営者の方からも高い評価を頂いている。


【メモ】奥本氏と高山氏の共著『なぜ大東亜戦争は起きたのか?』の中で、父・奥本實氏が生前何度も口にしていた言葉「絶対戦争をしてはいけない」「日本は軍隊を持たなくてはいけない」が紹介されていた。戦争について多くを語らなかった實氏が口癖のように話したという一見矛盾するような二つの言葉の重みを、われわれは胸に刻まなければいけないと感じた。