白村江敗戦後の屋嶋城と天智天皇 高松大学地域連携センター長・高松短期大学講師 西岡 達哉氏に聞く 

対外防衛目的説は要再検討 藤原氏一族や皇族の迎賓館?

山田郡を向いている城門

香川県高松市と瀬戸内海を見下ろす屋島で古代山城の屋嶋城(やしまのき)が復元され、2016年から一般公開されている。古代史家の西岡達哉氏は、唐の侵攻を防ぐためという従来の屋嶋城の役割に疑問を呈し、記紀や現地の地形から、天智天皇を持ち上げ、藤原氏ゆかりの弘福寺寺領のある山田郡を守護するため、との見解を発表している。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

 にしおか・たつや 1960年、愛媛県新居浜市生まれ。今も新居浜から大学に通っている。名古屋大学文学部で考古学を専攻し、卒業後、香川県教育委員会に勤務。香川県立ミュージアムなどを経て、香川県埋蔵文化財センターで讃岐国府跡などの発掘に当たり、退職後の2022年4月に高松大学地域連携センター長・高松短期大学講師に。『坂出市史』『検証!勝賀城跡』『四国の中世城館』などの著書・共著書がある。

――朝鮮式山城の屋嶋城は、白村江の戦に勝利した唐・新羅連合軍が倭国に攻めて来るのを防ぐため、大急ぎで整備したとされています。

歴史教科書にもそう書かれています。私の一番の関心と興味は、なぜ屋島が選ばれたかです。屋島は江戸時代までは陸から離れた島で、その後、塩田開発と干拓水田で埋め立てられ、陸続きになりました。高松大学から北に屋島が見え、その少し左前方に豊島(てしま)があります。豊島はテーブル型の島で築城に適しており、瀬戸内海の真ん中にあることから、瀬戸内海の航路を掌握するには、四国に近い屋島よりも地理的に有利です。

今年4月に本学高松大学に赴任するまでは、そんな見方はしていませんでしたが、ふと見ていると、豊島の方がはるかにうってつけなのです。屋島の北嶺に見られるように、屋島の山上は狭く、多くの軍勢を配備する余地はありません。しかも、当時の朝鮮式山城で、島にあるのは対馬の金田城のほかは屋嶋城だけであり、四国本島とのアクセスも不便です。

そこで『日本書紀』を読み返すと、天智天皇6年(667)の条に「倭國高安城、讃吉國山田郡屋嶋城、對馬國金田城を築く」と記載されています。不思議なのは、屋嶋城だけ山田郡と書かれていることで、そこに何か意味があるのではないかと思い、後世、山田郡には弘福寺の寺領があったことに気付きました。飛鳥の弘福寺(ぐふくじ)は藤原氏の氏寺である興福寺の前身で、かつて「飛鳥四大寺」の一つに数えられた川原寺の法灯を継ぐ寺なので、藤原氏との関係を考えました。

本学の所在地は高松市春日町で、近くに藤原氏の氏神である春日神社もあります。天智天皇は大化の改新を中臣鎌足と共に起こした中大兄皇子で、鎌足は臨終に際して藤原姓を賜り、藤原氏の祖となりました。すると、藤原氏の勢力下にある山田郡に屋嶋城を築いたのは、同志である天智天皇と歩調を合わせたからではないかと。さらに、川原寺は天智天皇が母の斉明天皇の菩提(ぼだい)寺として川原宮跡に建てたものなので完全につながります。

――すると屋嶋城の役割は?

瀬戸内海の防衛よりも、母の菩提寺だった弘福寺の寺領を守護するためではなかったかと。私は本学に来る前は坂出市にある香川県埋蔵文化財センターで讃岐国府跡の発掘調査をしていて、眼前にある古代山城の城山城(きやまじょう)を見ていました。城跡としては、城山城の方が屋嶋城より圧倒的に立派で、規模も大きい。屋嶋城跡の石塁は全部で1キロもありませんが、城山城跡は石塁と土塁で全長6キロもあり、後世の城郭に見られる本丸、二の丸のように、中心を囲い、一部は二重に囲うなどしっかりした構造です。それなのに、なぜ『日本書紀』には屋嶋城しか書かれていないのか。

『日本書紀』は藤原不比等が書いたというのが梅原猛説で、私も心酔しているのですが、屋嶋城を入れたのは不比等が天智天皇を持ち上げるためだったのではないかと思いついたのです。わざわざ山田郡まで記したのは、斉明天皇への忖度(そんたく)ではないかと。春日川の流域は藤原氏の支配下でしたから。

復元された屋嶋城に登ると、城門は北の瀬戸内海ではなく、南の山田郡の方を向いています。対照的に、城山城の城門は海に向いています。私は、屋嶋城の城門が山田郡を向いているのは、当地に来る藤原氏一族や皇族を迎えるために整備したからではないかと考えています。

――迎賓館ですね。

後世、安土城から大手門は人の出入りの多い方角に設けられますが、それまではできるだけ隠されていました。ですから、屋嶋城の城門が山田郡を向いているのは、貴人を迎えるためと考えると、当時は離れ小島だった屋島を要塞(ようさい)化した理由が理解できます。通説の外国軍への防衛のためは要再検討です。

歴史学者の中村修也文教大学教授は、朝鮮式山城は日本ではなく敵の唐が整備したとの説を述べています(『天智朝と東アジア』NHKブックス)。朝鮮半島から大和に攻め入るとすると、対馬から九州、瀬戸内海へと侵攻する必要はなく、日本海を突っ切り若狭湾に上陸すればいいのです。

坂出の城山城が国府に背を向けているのは、国府が敵だからです。国府を見張り、攻撃するための城というのが中村教授の見解で、同じように、大野城も大宰府を見張る施設だったと。

――白村江の敗戦後、日本は唐の冊封と直接支配の中間である羈縻(きび)支配を受けていたとの説もあります。唐から大量の官僚が太宰府に派遣されていますから。日本の正史にはふさわしくないことですが…。

都合の悪い歴史は隠蔽(いんぺい)されがちです。天智天皇は中央集権化を促すため、唐の侵攻を豪族たちに喧伝(けんでん)した可能性はあります。その後、新羅が唐と敵対するようになり、唐の日本侵攻の恐れはなくなります。

屋島でもう一つはっきりさせたいのは安徳天皇の御在所です。

――牟礼の六万寺や屋島麓の安徳天皇社という説は?

確証はありません。律令制度で都を遷(うつ)すには、平安京のような施設を造らないといけないのですが、両者とも山裾で、それだけの土地はありません。むしろ、古高松などにあるのではないかと、にらんでいます。短期間ですが、朝廷の場所が不明だと、日本史に空白ができます。朝廷のある場所で時代区分すると、屋島時代があってもいい。教科書に屋島時代を書いてほしいというのが私の積年の思いです。


【メモ】地元のケーブルテレビの番組で西岡さんの話を聞き、発掘調査が専門の古代史家には珍しく大胆な推理をするのに驚いた。聞きながら思い出したのは、白村江の敗戦後、日本は唐に先の大戦後のように占領支配されていて、律令制は太宰府に派遣された大量の唐の官僚たちが整備したとの説。GHQによる民主化のようだ。それを西岡さんは具体的な物に語らせようとする。勝者が書いた歴史をひっくり返すのは、地方の歴史家かもしれない。