『ハプスブルク事典』を出版して
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「大空位時代」に選挙で選ばれる
ハプスブルク家が登場したのは11世紀といわれている。
彼らの定住地は、現在のライン川の上流地域、具体的には、スイスのバーゼルとチューリッヒを結ぶ貫線の西方に建つ「ハプスブルク城」が、一族の名前の由来となった。この城の建設年度は、1220年もしくは1230年。
11世紀ごろからハプスブルク家の一族はこの地を根城にして、おおよそ200年かけて次第に勢力を涵養(かんよう)し、神聖ローマ帝国(962~1806年)の伯爵格の小領主となった。
1250年から、正統性の不十分な王が複数出現し抗争を繰り返す「大空位時代」になった。この不安定な「大空位時代」を終結させたのは、教皇グレゴリウス10世だった。
強力な十字軍を支援する、正統なドイツ王を選出するよう帝国にはたらきかけた。1273年、国王選挙が行われた。
3人の大司教、4人の世俗諸侯からなる7人の選帝侯が選んだのは、既に名乗りを上げていた野心満々なフランス王フィリップ3世やチェコ王オタカル2世ではなく、立候補もしていない55歳の貧乏な田舎の伯爵、ルドルフ・フォン・ハプスブルクであった。しかも7票満票だった。ルドルフは選帝侯たちにとって無害な存在であったのだ。
新ドイツ王ルドルフ1世の戴冠式は、皇帝カール大帝ゆかりの司教都市アーヘンの大聖堂で行われた。帝国の主だった君主、貴族、高位聖職者、都市代表などが参列した。ところが、封土授与が執行される段になり、ルドルフの右手には王者の象徴である王笏(おうしゃく)がなかった。並み居る参列者は固唾をのんだ。新王は神器なしにどうするのか。
そのときルドルフはつかつかと祭壇に歩み寄り、その中央に置かれているキリストの磔刑(たっけい)像を掴(つか)み、張りのある声で決然と述べた。
「この世をお救いになられたキリスト様のこの像が帝国の王笏となる!」。彼はとっさの機転で切り抜けたのだった。
ところで、ルドルフの国王選出に異議をとなえたのは、オタカルであった。ルドルフは、オタカルによる領土獲得は不法と見なしてその放棄を要求したが、オタカルが拒んだために、彼に帝国追放を通告した。両者の対立は、1278年、ウィーン北方マルヒフェルトの合戦で決められた。
ルドルフはオタカルを敗死させた。ルドルフは彼の領土オーストリアを没収し、オーストリアはハプスブルク家の発展を支える勢力基盤となった。
1273年から1918年の第1次世界大戦の敗北によるハプスブルク家の消滅宣言まで、実に約650年間も続いたハプスブルク家であったが、その間、群雄割拠の真っ只(ただ)中で体制はかろうじて生き抜くだけのこともあったろう。
それにしても、ハプスブルク家は、ヨーロッパにそれこそ無数に存在していた「王家」とまったく異なっていて、「外国人の目には『未知の国(テラ・インコグニタ)』のように見えた帝国」について、19世紀前半のハプスブルク君主国の名宰相クレメンス・メッテルニヒは自伝の末部で、「日常生活において、ましてや外交関係において、その国自身の名の代わりに統治している王家の名が用いられているところなどどこにもない」と述懐している。
従って、その長(おさ)も、国王、伯爵、大公、皇帝など、さまざまな称号で呼ばれていたのだった。
(法政大学名誉教授・川成洋)



