夏の甲子園で仙台育英高校が初栄冠
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今夏の全国高校野球選手権大会で宮城県の仙台育英高校が東北初の優勝を飾り、優勝旗の「白河の関」越えを果たした。この「白河越え」には東北人の歴史的なさまざまな思いがこもる。
白河関跡(福島県白河市、国史跡)は、東北本線白河駅から南方約12キロの山間にある。承和2(835)年の太政官符(だいじょうかんぷ)(『類従三代格』)に、「白河・菊多(きくた)両剗(せき)」について「旧記ヲ検スルニ剗ヲ置キテ以来、今ニ四百余歳」とあり、この当時、関の設置年代は5世紀前半頃と認識されていたようだ。
大和国家の勢力がさらに北進した後は、軍事的任務は薄れ、陸奥国の国境検問的な役割が残った。10世紀に入り、律令国家の崩壊とともに官関の機能は失われ、「白河の関」は歌枕として都人の憧憬(しょうけい)の地へと変化する。一方、関以北の東北は、江戸末期まで異境・異域と見なされた。
江戸時代に「白河以北一山三文」という俚俗(りぞく)があった。戊辰戦争では官軍を鼓舞するスローガンとして「白河以北一山百文」と言い換えられたという。大正時代の第19代内閣総理大臣で、岩手県盛岡市出身の原敬は、俳号を「一山」としたが、これは、そうした嘲笑への抵抗であった。
東北は寒冷な気候にあり、それに強いアワ・ヒエなど雑穀栽培を主とし生き延びてきた。明治政府の方針で米作に大きく切り替わるが、たちまち冷害・凶作が相次ぎ、貧しい後進地域というイメージが定着した。しかしこうした歴史の中で培われた忍耐強さは宝とも言える。
東北学の提唱者である赤坂憲雄福島県立博物館長は東日本大震災直後に次のように書いた。「東北の村々は地震や津波、冷害やケガチ(飢饉(ききん))によって繰り返し壊滅しながら、あらたに村を起こし、さまざまな縁によって結ばれたコミュニティを再興してきたのである。東北はやさしく、寡黙で、禁欲的だ」(「東北の民俗知 今こそ復権」読売新聞2011年3月23日)
大震災では、被災しても他人を思いやる様子が、日本人のすぐれた美質として世界を感動させた。かつてのイメージを払拭(ふっしょく)する仙台育英の選手たちのさわやかなプレー、そして、コロナ禍の中で励む全国の高校野球部員を思いやった須江航監督の優勝インタビューの言葉は、新たな東北像を全国に印象付けたのではないだろうか。
(市原幸彦)



