21世紀の芸術の道標の一つ

生命力と夢にあふれた、音楽が聞こえてくる作品
19世紀後半に古典的手法を脱却した西洋美術は、印象派、フォビスム、キュビスム、シュルレアリスム、抽象表現主義、ポップアートなど、さまざまな個性あふれる運動を展開した。同時に、この時期は産業革命と科学の台頭、そして戦争も無視することはできない。
では、ポストモダンで始まった21世紀の芸術はといえば、20世紀後半に、それまでエスニック美術でしかなかったアジアの美術が認められるようになり、グローバル化が進んだ一方、西洋美術を脱した先に見える美術の方向性を示す作家は筆者の知る限り現れていない。
そんな中、東洋人も共感できる無私、無欲の画家が20世紀のフランスに存在したことに最近、気づかされた。それは今はやりのデジタルを駆使した没入型芸術でもなく、大型キャンバスに描かれた虚勢も見え隠れする自己主張の強い絵画でもなく、小品でありながら見入って飽きない、誰も知らない小さな国に誘い込まれるような世界を提供する画家だった。
過去に無名のまま他界した画家は数知れないが、ハンス・ライヒェル(フランス語発音ではアンス・ライシェル)の作品は、時代を超えて人の心に訴え掛ける不思議な魅力にあふれている。パウル・クレーと比較されることの多いライヒェルは話題性には乏しかったが、その理由は彼自身が当時の画家として非常に控えめで野心家でなく、無私の画家だったことが考えられる。
作品サイズは小さく、ほとんどが水彩画というのも巨匠の列には加わりにくい要素だったと思われる。
1930年代にパリで友人だった当時貧乏作家のヘンリー・ミラーがライヒェルの死後、書き残した文章には「孤独な人で、彼を理解し、信じていた人は少ししかいなかった」と書き、さらに「ただ夢の中から見え隠れする宝を探し続けるダイバーのような人だった」と印象を書き残している。
ライヒェルはバイエルン生まれのドイツ人画家。1929年にフランスに移り住み、1958年に他界した。そのライヒェルの「内なる光」展(9月18日まで)が、パリ南東15キロにあるギュスターヴ・カイユボットの旧別荘で開催されている。テーマは魚や草花、不思議な生き物にも見える繊細な線で描かれたものが水彩独特の絵の具のにじみの中を漂っている。
今回の展覧会のライヒェルの作品の多くを所蔵するパリのジャンヌ・ビュシェ・ジェジェール画廊は、ライヒェルの才能を第2次世界大戦前に見いだした画廊創設者、ジャンヌ・ビュシェが集めたものだ。
ライヒェルは「私の小さな水彩画は歌であり、祈りであり、多くの人に喜びを与える小さな色彩の空間。ただそれだけ」と語っている。20世紀の美術は、ともすれば頭と科学的理論で描かれたものが多かった時代に、生命力と夢にあふれた音楽が聞こえてくる作品はまれといえる。
彼を知る人々は、彼は金や物にまったく執着がなく、ただ、人が喜んでくれる姿を見たいだけだったと言っている。彼の作品は今、不確かな時代に不安を抱える多くの人々に癒やしを与え、芸術の在り方の本質を示しているようにも感じられる。
(安部雅延)



