
米が騒然とした尹錫悦発言
李承晩(イスンマン)は1960年4・19革命で下野した。下野ならば田舎にでも行って悠々自適に過ごしたろうが、李承晩は米ハワイに追われて寂しい死を迎えた。李承晩を取り上げるのは尹錫悦(ユンソンニョル)大統領の最近の姿と重なって見えるからだ。「独自核武装の可能性」発言のためだ。
李承晩は「国父」より多く独裁者として呼ばれる程イメージが否定的だが、外交・安保に関する業績を低く見る人はあまりいない。彼が対米外交で咲かせた花の最高峰は70年前に結ばれた韓米相互防衛条約である。李承晩が命に代えて勝ち取った条約だ。
1948年の政府樹立直後から李承晩は米国に軍事援助を要請し、相互防衛条約締結を打診した。だがトルーマン大統領は反対に韓国駐屯米軍を撤収。それで50年に韓国動乱が勃発した。停戦会談時の52年、再び李承晩はトルーマンに条約締結を要求した。でなければ韓国軍単独で北進統一すると脅したがトルーマンは答えなかった。
52年にアイゼンハワー大統領が当選すると、直ちに李承晩は手紙を送って相互防衛条約締結を迫った。53年、休戦協定の妥結が差し迫った時にも再度手紙で条約締結を促した。
米国を変えさせたのは李承晩の反共捕虜釈放だった。北朝鮮・中共軍の捕虜まで自身の意思に従って南北韓、中国・台湾および第三国に送ってしまったこの事件は休戦協定を無に帰すこともできる深刻な事案だった。
この時、登場したのが「エバーレディ作戦」(米国防総省が作成した李大統領追放を目指した作戦)だ。幸い作戦は実行されず、以後、米国は交渉を通じて「韓国が侵略される場合、米軍が直ちに介入する」という部分は除外したものの、李承晩が要求した大部分を受け入れて53年8月、韓米相互防衛条約に仮調印した。
70年後、韓国が独自核武装を話している。尹大統領の発言にワシントンは騒然となった。尹大統領が米国の拡大抑止を相当に信頼するとして一歩後退したが、なかった話にはなりそうにない。北朝鮮の日常化された挑発と迫る追加核実験など韓半島の危機高潮に、国民の大多数が核武装を支持しているのが第一の理由だ。韓国の原子力水準で決意さえすれば核兵器を造るのは時間の問題だというのが二番目だ。
解決法は尹大統領が米国で探し出してこなければならない。4月ごろ韓国大統領の12年ぶりの国賓訪問が実現しそうだという。訪問の形式は重要でない。尹大統領が手ぶらで戻らないことが重要だ。
休戦1年後、李承晩は米国でアイゼンハワーと会談した。当時の記録を見ると国賓訪問だったようだが、歴史はこの形式ではなく、彼が帰国する時、米国から軍事援助 4億2000万㌦、経済援助2億8000万㌦を引き出したという事実をより大きく記録している。
核武装までとはいかなくても、戦術核再配備クラスの対北核抑止力の強化は韓国に必要だ。核を持った北朝鮮と持たない韓国の戦いは、ウクライナ戦争を見れば簡単に予測できる。
米国が核の傘を信じてくれと言っても本当に信じてはならない。いつでも裏切り得る外交の生理に対する李承晩の冷静な認識が執拗(しつよう)な相互防衛条約の要求と実現につながったのだ。
(ナ・ギチョン国際部長、2月22日付)



