【ポイント解説】原因究明より責任追及
梨泰院事故で多くの「責任者」が追及されている。事故の原因究明と対策立案よりも、まずは処罰を行う韓国の国民性がよく現れている。犠牲者に対して「最小限の道理」はさて置かれ、とりあえず遺族をはじめ国民の感情が納得するまで「誰か」を追及し罰せずにはいられないのだ。
だが、往々にして追及がひと段落してしまうと、本当の事故原因と責任究明への関心は薄れ、責任者も構造の問題点も正されずに、また同じような事故を起こす。
韓国メディアの多くは梨泰院事件直後の東京渋谷の状況を伝えた。日本では2001年の明石花火大会で犠牲者を出して以来、密集による大規模な事故は起きておらず、渋谷のハロウィーンも「JDポリス」が出動して、群衆を規制、誘導して事故を未然に防いでいると一斉に伝えた。
「日本は事故を教訓にして対策を立てた」「見習わなければならない」という論調が溢(あふ)れるのだ。これもいつもと同じ光景である。実際は、日本を見習った結果、民衆の意識や構造が改善され、事故が減ったりなくなったりしたという話は聞かない。
ではなぜ原因究明して対策を立てるところまで行かないのか。昔、中国では天変地異は君主の不徳が原因とする「天人相関説」が言われた。同じような考え方が韓国にも残っており、李明博大統領時の狂牛病騒ぎ、朴槿恵大統領時のセウォル号沈没事故など、大事故や騒動が政権を揺るがした。この大事故が起こるのは国のトップに問題があるからだという考え方は国民一人一人の自省を呼びにくい。「誰かのせい」にできるからだ。
誰もが納得する責任者のあぶり出しと正しい処罰は必要だが、これに汲々(きゅうきゅう)とするあまり、事故の分析や市民意識の反省といった根本的な対策にまで至らず、誰かが処罰されて終わってしまう。そしてまた同じことが起こる。「大韓民国の危機」は克服できるのか。
(岩崎 哲)



