北方文化の移動の可能性も

中国浙江(せっこう)省一帯に広がる「良渚(りょうしょ)文化」が、夏殷周の3王朝に先立つ「中国最古の虞(ぐ)朝」とする考え方が注目されつつある。虞朝は夏朝以前に存在したと古文献に記された王朝だ。伝説的な三皇五帝のうち最後の堯(ぎょう)や舜(虞舜ともいう)やその系列(虞氏または有虞氏)の王朝を指す。
良渚文化のこれまでの調査によって、巨大な「良渚古城」(総面積約290万平方㍍)の存在や豊富な玉器文化が明らかにされ、複雑な社会階層を備えた宗教的・軍事的色彩の濃い、国家形態を成していたと考えられている。

虞朝に関する記録は『国語』『墨子(ぼくし)』『左伝』『礼記(らいき)』などにあり、『韓非子(かんぴし)』「顕学(けんがく)」には「殷、周700余年、虞、夏2000余年」とその存続年数を記す。夏王朝(紀元前2070年~前1600年)の年代から推測して、虞朝はだいたい前3600年~前2070年の間続いたことになる。良渚文化の存続年代は前3300年~前2200年なので、ほぼ一致するといえる。
この虞朝=良渚文化説の一つが中国の研究者・陳民鎮氏の『中華文明起源研究―虞朝、良渚文化考論』(安徽(あんき)大学出版社、2010年)だ。考古、言語、伝承、民俗など各方面から詳細に説き、漢民族の主体を成す華夏族(かかぞく)やその文化の発祥は、良渚文化が存在した中国東南部にあるとしている。
夏朝は、始祖の禹が帝舜からの譲位を受けて成立したと『史記』などは記す。山西省臨汾(りんふん)市の陶寺遺跡(前2600年~前2000年)は、良渚文化の影響が強く、帝堯の都城だったという説がなされている。陳氏をはじめ一部の中国の研究者は、良渚文化の人々がその消滅後(おそらく洪水による)、北遷して陶寺遺跡を建て、その後夏王朝(河南省・二里頭遺跡)を建てたとみる。
陳氏はまた、特に華夏族がその族的図騰(ととう)(トーテム)とする龍、鳥(からす)も東南部に発祥したという。しかし、龍と鳥の図騰信仰の発祥は、中国東北部がより古い。陳氏説では、そのことは等閑(なおざり)視されている。
中国遼寧省(りょうねいしょう)阜新(ふしん)市の興隆窪(こうりゅうわ)文化・査海(さかい)遺跡は、龍形(石積みや土器紋様)の中国での最も早い出現地で、時期は今から8000年前だ。その半世紀ほど後、同省の瀋陽(しんよう)新楽(しんらく)遺跡から、鳥が描かれた龍形の木製の権杖(権力を象徴する杖)が出土している。また興隆窪文化を引き継いだ紅山文化(前4500~前3000年)では、主要な遼寧省の牛河梁遺跡をはじめ龍形、鳥形の玉器が豊富に出ている。
北方の紅山文化は気候が寒冷化乾燥化した後、衰退する。一方、長江流域各地で突然、巨大都市が出現し、龍に対する信仰が現れる。環境考古学の安田喜憲氏は「紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したのではないか」(『龍の文明・太陽の文明』)という。
良渚文化の宗教的権力を象徴的に示すのが玉琮(ぎょくそう)だが、韓国・鮮文大学校のイヒョング教授によれば「原型は北方の(東夷族の)紅山文化にあった」(『コリアンルーツを探して』、韓国)。このように良渚文化あるいは虞朝の成立には、北方文化の南下が多大な影響を与えた可能性があるのだ。
(市原幸彦)



