【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(10) 南雲愚将論再考(上) 幕僚統帥に浸った昭和の海軍 草鹿参謀長が作戦ミスを責任転嫁

草鹿参謀長の回想『聯合艦隊』(毎日新聞)

空母艦載機による真珠湾空襲という専門外の航空作戦の責任者を命じられ、南雲忠一中将はその重責に苦しんでいた。ハワイに向け機動部隊が千島の単冠(ヒトカップ)湾を出撃する段になっても、「えらいことを引き受けてしまった。僕がもっと強く出てキッパリ断ればよかった。上手(うま)くいくかね」と草鹿龍之介参謀長に不安な心情を吐露している。

ミッドウェイで南雲は自ら赤城の舵(かじ)を取り、米軍機が次々と放つ魚雷を巧みに回避し、見事な舵さばきで部下を感服させた。だが肝心の作戦指導については、真珠湾でもミッドウェイでも自ら口を出さず、参謀長草鹿龍之介少将や航空担当幕僚源田実中佐の判断に従った。

南雲忠一中将(死後大将)

先例と経験を重視する一方、未知の職域に尻込みし、失敗を極度に恐れる官僚軍人の典型的な姿がそこにあった。減点主義が蔓延(まんえん)する組織の出世競争で生き残るための知恵であったろうが、その消極性が指導力を発揮せぬ指揮官と批判される原因となった。南雲は平時における有能な官僚軍人ではあったが、有事の名将、猛将とは言い難い人物だった。

しかし、指揮官先頭が帝国海軍の伝統とはいえ、将官クラスともなれば、指揮は下僚に任せるのが昭和の日本海軍では通例だった。南雲だけが部下任せだったわけでもない。ただ、作戦の成否を左右する重要な局面でも南雲は部下に判断を仰ぎ、それに従う場面が多過ぎた。全てを専門の参謀が仕切る幕僚統帥に浸り切っていたのではないか。

分野ごとに配された幕僚がまず方針や作戦を立て、その具申を受けて最高指揮官が判断し、形ばかりの微修正を施したのち、自身の名を以(もっ)て令を下すスタイルが海軍を覆っていた。慎重で心配性な性格に加え、組織の秩序を重んずるエリート官僚軍人の南雲には、戦場にあってもその弊を打破することに抵抗感を覚えたのであろう。

肉薄戦を諫めた草鹿

草鹿龍之介少将

ミッドウェイの汚名返上を期した南雲は、南太平洋海戦で、機動部隊を敵陣に接近させ肉薄戦を挑もうとした。しかし、敵航空機の脅威を説く草鹿が常に南雲を諫(いさめ)め、断念させている。再三にわたり聯合艦隊から督戦を促す電報が届き、たまりかねた南雲は自室に草鹿を呼び、「このままでは自分の立場がない」と草鹿に肉薄攻撃の実施を懇願するかのようだった。草鹿の回想記には、そう記されている。

航空作戦に疎い南雲は、航空に通じた草鹿や源田ら幕僚に判断を任せたつもりだったろうが、草鹿は飛行船の専門家だ。途中から職域を航空に転じたが、航空機の操縦はできず、航空作戦に精通するほどでもなかった。源田実は“源田サーカス”の異名を取る飛行機乗りではあったが、空中戦の経験はない。そもそも当時の日本海軍に航空戦に通じた指揮官や幕僚などいないも同然で、まして空母の集中運用は未知の領域だった。事情は米軍も似たり寄ったりで、ミッドウェイ作戦の対手スプルーアンス中将も航空作戦は全くの素人。それでも彼は戦端が開かれるや、積極果敢な作戦指導で勝利を勝ち取ったのである。

真珠湾以来機動部隊を率いてきた南雲には、スプルーアンス以上の実戦経験がある。スプルーアンスにできて、南雲にできないはずはない。部下の評価や組織の慣行など気に留めず、せめて作戦の要所では自らの判断に基づき下令すべきであった。もしミッドウェイで南雲が積極的に指揮しておれば、その慎重な性格や門外漢故の不安から偵察、索敵に力を入れ、あるいは勝敗の行方が変わったやもしれない。

矛盾に満ちた批判論

こう見ると、ミッドウェイ大敗の結果責任だけでなく、統率力の弱さでも南雲を名将扱いすることはできない。下僚任せだけでなく、南雲には作戦指導が消極的で、敵に食らい付く闘志や気迫がなかったとの非難も強い。だが、南雲が全て幕僚任せであったなら、作戦が消極的と批判さるべきは南雲ではなく、彼にそのように意見具申した幕僚連であるべきだ。南雲批判は、一方で部下に頼り切りと指弾しながら、他方で臆病退嬰(たいえい)的な戦いぶりの責めを南雲本人に負わせるという矛盾に満ちたものである。

戦後、回想記の中で南雲を批判し、今日に至る低い南雲評価を定着させたのは、草鹿参謀長や淵田美津雄中佐ら生き残った南雲の部下たちだ。特に草鹿は、作戦中に見せた南雲の苦悩狼狽(ろうばい)ぶりを詳述している。彼らは南雲の欠点を描き、本来自身が負うべき作戦判断誤りの責めを彼に押し付け、自己弁護に走ったのではないか。そうした疑念が沸く。意図しての作為か、無意識だったかは微妙だが…。

参謀長の草鹿は真珠湾から南太平海戦まで終始南雲と行動を共にし、常に南雲を説得し自らの具申通りに下令させている。草鹿は一撃離脱を信条とした。さっと攻め、風の如(ごと)く立ち去るのを最上の戦法と信じ、肉を切らせて骨を断つ戦を避ける軍人だった。この草鹿に頼り続けたことで、消極的作戦指導の不名誉を南雲自らが背負う羽目になったのである。

当時の日本の価値観に照らせば、ミッドウェイ大敗の責めを負い南雲は自決すべきであったろう。だが参謀長に促され身の処し方を誤りおめおめと生還した指揮官と、周囲の南雲を見る目は冷たかった。そのうえ南雲への当て付けのように、死ぬ必要がないのに艦と運命を共にした山口多聞少将と比較され、南雲の評価は地に落ちる。幕僚らが南雲に責任を転嫁させ、自己の正当化を図るには実に都合のよい環境だったと言えまいか。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三