戦略史家 東山恭三
攻撃絶対・防御無視が招いた戦力消耗
マレー沖海戦の快挙

真珠湾攻撃で多くの戦艦を失った米海軍も、年が明けた昭和17年初めには空母機動部隊を編成し対日反攻に動きだす。機動部隊はソロモン、マーシャル方面の日本軍島嶼(とうしょ)基地を相次いで強襲、2月20日には、ブラウン中将が指揮する第1任務部隊(空母レキシントン基幹)がニューブリテン島東方海域にまで進出し、ラバウルの空襲を企図した。ラバウルは1月23日に陸軍の南海支隊が占領し、日本軍が基地を設営したばかりであった。
米軍の動きを索敵機からの報告で知った海軍南洋部隊指揮官は、直ちに隷下部隊に攻撃を命じた。これを受け第4航空隊の一式陸上攻撃機17機が20日12時20分、米空母部隊を撃滅せんと勇躍ラバウルから出撃した。陸攻搭乗員は、同じ中攻部隊が先のマレー沖海戦で挙げた殊勲をさらに上回る大戦果を挙げんと血気盛んであった。

中攻とは、太平洋の島嶼など陸上基地から発進する日本海軍の攻撃機で、太平洋を西進する優勢な米海軍を雷爆撃し、その戦力を減殺する目的で開発された攻撃機で、一式陸上攻撃機や前身の96式陸上攻撃機がその代表だ。では中攻が活躍したマレー沖海戦とは、どのような戦いであったのか。
昭和16年12月9日、英東洋艦隊の旗艦プリンスオブウェールズと巡洋戦艦レパルスが、マレー半島上陸部隊を乗せた日本の輸送船団を攻撃すべく、マレー半島東岸クアンタン沖を北上しつつあった。この動向を察知した日本海軍は翌10日午前、英艦隊攻撃のためマレー半島の各基地から、一式陸攻および96式陸攻計85機を発進させた。
そして2時間にわたる死闘の末、中攻部隊は2隻の戦艦を撃沈する。航空機だけで作戦行動中の戦艦を沈めたのは史上初。海戦の主役が戦艦から航空機に代わったことを知らしめたこの戦いは、世界戦史に名を遺(のこ)すものとなった。しかも我が方が失った中攻は2機とまさに圧勝だった。プリンスオブウェールズは当時英国が誇る最新鋭の戦艦で、開戦直前にシンガポールに回航されたばかり。その喪失をチャーチルは「英海軍創設以来の悲劇」と嘆いた。
ラバウルから米機動部隊攻撃に向かった陸攻部隊は米艦隊を発見、攻撃態勢に入った。だがその後、消息が途絶えた。そして出撃した17機のうち13機が次々に撃ち落とされ、2機が海上に不時着。20日夕刻ラバウルに帰投できたのは2機にすぎなかった。全滅に近い大敗だった。ラバウル空襲は防げたが、陸攻部隊による米艦艇攻撃の戦果は皆無に終わった。
援護の戦闘機伴わず

原因は、陸攻部隊の接近を早々と察知した米軍が、空母艦載のワイルドキャット戦闘機を上げて陸攻機を待ち受け、襲い掛かって来たからだ。これに対し、陸攻部隊には1機の援護戦闘機も付けられていなかった。当時ラバウルには零戦が18機しかおらず、しかも進出した直後で稼働機は数機しかなかった。
マレー沖海戦でも、中攻部隊には援護の戦闘機は付けられておらず、今回も陸攻隊だけで攻撃は可能と航空隊は判断した。しかし、マレー沖海戦で英東洋艦隊は空母も戦闘機も伴っていなかった。英艦隊司令長官フィリップ中将は出撃に際し、戦闘機の派遣を強く司令部に求めたが、日本軍の攻撃でマレー方面の英戦闘機のほとんどが失われており、要望は却下されていた。その僥倖(ぎょうこう)が大戦果に繋(つな)がり、海軍機の脆弱(ぜいじゃく)性問題を等閑視させる結果となった。
零戦も防御力が皆無
援護戦闘機を伴わない陸攻機は、米戦闘機の攻撃や米艦艇の激しい対空砲火に対して極めて脆弱だった。広い太平洋上で米艦隊を攻撃するため、中攻には長い航続距離と少しでも多くの爆弾、魚雷を積載できることが求められ、防御力が削(そ)ぎ落とされたからである。
長距離飛行が可能となるよう一式陸攻の主翼内には、インテグラルタンクと呼ばれる大きな燃料タンクが内蔵されていた。だがゴムなどの防弾装置や消火器を装備しておらず、数発の銃弾を浴びただけで、気化したガソリンに引火して大火災を起こした。直(す)ぐに火を噴き落ちていく陸攻を、米軍機の搭乗員は“ワンショットライター”と呼んで嘲(あざけ)った。
防御力が皆無であるのは、中攻に限った話ではない。零戦も同じだった。長い航続距離と高い旋回性能、さらに20ミリ機関砲という重火器を搭載するには機体重量を極限まで軽減する必要があった。そのため機体の内部は穴だらけにされ、エンジンや搭乗員を守る防御装備も施されなかった。空戦には強かったが、被弾すれば搭乗員は命を奪われ、機体は忽(たちま)ち火だるまとなった。
攻撃力が絶対的に重視された。強い攻撃力を持てば、防御への配慮は不要になるとの発想だ。攻撃絶対・防御無視の設計思想を基に中攻など海軍航空機の開発・整備を進めた中心人物が、海軍航空本部長の職にあった山本五十六であり、源田実らがその信奉者だった。
壊滅した陸攻隊の戦果について、南洋部隊は敵空母など2隻撃沈と誇大に報告、2月23日には天皇にも上奏された。勇戦敢闘が叫ばれ、日本軍機の脆弱性を懸念、危惧する声は上がらず、改善措置も講じられなかった。これがソロモンの大消耗戦で無為に多くの航空機と搭乗員を失い、貴重な戦力をすり潰(つぶ)してしまう原因となる。
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