【上昇気流】(2022年10月8日)

浅沼稲次郎(Wikipediaより)

「浅沼稲次郎来たる!」。気流子が小学生の頃、街中にこんな立て看板が並んだ。郷里の小さな自治体の市長選挙の応援演説にやって来るという。「一目、見に行こう」と祖父に連れられて街頭に出ると、ゆっくりと走る三輪トラックの荷台でマイクを握っていた。

集まった一人一人に手を差し出し、握手をしながらの演説だった。大人たちは駆け寄って握手したが、小さな気流子の手は届かなかった。そしてトラックは去っていった。そんな思い出がある。

浅沼氏は1960年の安保闘争時の日本社会党委員長で、闘争を煽(あお)りに煽った人である。時の首相、岸信介氏のみならず自民党の不倶戴天(ふぐたいてん)の政敵であった。安保条約が改定された直後の60年10月、東京・日比谷公会堂で演説中に壇上に駆け上がった17歳の少年に刺されて非業の最期を遂げた。

国会で追悼演説を行ったのは岸氏の後を継いだ池田勇人首相である。元駐米大使の加藤良三氏がそれを新聞紙上で紹介していた(産経9月22日付「正論」)。

池田氏は「私は、誰に向かって論争を挑めばよいのか」と嘆じ、テロを断じて許さない決意を語った。「沼は演説百姓よ よごれた服にボロカバン きょうは本所の公会堂 あすは京都の辻の寺」という詩を引いて浅沼氏の人柄を偲(しの)んだ。

安倍晋三元首相もまた演説の人で、マイクを握ったままの最期だった。国会の追悼演説ではどんな言葉で見送られるだろうか。心を澄まして待ちたい。