【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(15)敗退の予兆(上) 活かされなかったウェーキの戦訓 飛行場建設や要塞化能力が戦局左右

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史 (15)

戦略史家 東山恭三

ウェーキ島

南雲・山本、山下・東條

これまで太平洋戦争初戦において赫赫(かくかく)たる武勲を挙げながら、悲劇的な最期を遂げた南雲(なぐも)忠一と山下奉文(ともゆき)という二人の軍人の軌跡を辿(たど)ってきた。だが二人の共通点はそれに留(とど)まらない。軍最高首脳との関わりが彼らの人生や後世の評価を左右した点も似ている。最高首脳とは、南雲にあっては山本五十六、山下は東條英機だ。

その山本と東條は同じ時期、陸海軍次官の職にあり、いわば同期の間柄とも言えるが、開戦に至る経緯から戦争指導について対照的な評価が戦後下されている。太平洋戦争を問い直す以上、陸海を代表する両者の再評価は避けては通れない。陸相と首相を兼ねた東條は、陸軍だけでなく国家の最高指導者でもあり、東京裁判でも存在感を示した。それ故、東條の再評価という大きなテーマは終戦まで語り終えた後の課題とし、まずは戦争前半の戦局を振り返りつつ、作戦を主導した山本五十六の評価と総括を試みたい。

ところで、ミッドウェイでは不覚を喫したが、開戦以来、日本海軍は連戦連勝、まさに破竹の勢いで進撃を続けていた。もし南雲艦隊がミッドウェイで作戦指導を誤らねば、その後の展開も違ったものになったのではという意見がある。だが本当にそうだろうか。ミッドウェイ以後の日本の作戦指導を語る前に、この認識が正しいかどうか検討してみたい。

真珠湾攻撃直後の昭和16年12月11日、日本海軍は中部太平洋の拠点ウェーキ島の攻略作戦を敢行した。だが強風と高波、それに米軍守備隊の激しい抵抗に遭う。島の三つの砲台、それに僅(わず)か4機のグラマン戦闘機の反撃で、第6水雷戦隊は駆逐艦2隻、哨戒艇2隻を失うなど予想外の損失を被り、第4艦隊隷下の陸戦隊は上陸を断念。作戦は完敗に終わった。

そこで急遽(きゅうきょ)真珠湾から帰投する南雲機動部隊に支援を求め、第2航空戦隊(飛龍、蒼龍)の艦載機が同島の米軍施設を爆撃、破壊した。その上で同月23日再度上陸を試み、何とか島を制圧するが、この時も寡兵ながら米海兵隊は陸戦隊に白兵戦を挑むなど勇敢に戦い、日本側の死傷者は600人に達し米側の3倍を超えた。島占領後、陸戦隊司令は米兵捕虜300人に破壊した飛行場の修復を命じた。だが米軍責任者カニンガム中佐は「3人で十分」と答え、大型自動車に機械を据えた“見慣れぬ道具”を用いて僅か1日で修復を終えた。シャベル(猿匙(えんぴ))とツルハシしか知らない海軍陸戦隊員が初めてブルドーザーを見た瞬間だった。

戦場のブルドーザー

開戦前、日本海軍首脳部は、太平洋を西進し来たる米艦隊をわが連合艦隊が日本近海で邀撃(ようげき)殲滅(せんめつ)し、一挙に勝敗を決するシナリオを描いていた。彼らの関心は戦艦、巡洋艦同士の砲撃戦や駆逐艦による水雷攻撃に集中し、迫り来る日米戦が太平洋に点在する島嶼(とうしょ)の争奪戦となることなど想定外だった。そのため離島での迅速な飛行場建設や攻撃を受けた際の修復能力、島嶼の要塞(ようさい)化が戦局の行方を左右することに思いが至らなかった。

たとえ開戦前に気付かずとも、実戦を経た後は、その体験を活(い)かし必要な措置を速やかに講じねばならない。戦いながら考え、日々改善する努力だ。ウェーキの戦いはガダルカナルなどその後の南太平洋での島嶼争奪戦の前哨戦と位置付けられ、得るべき戦訓も多かった。

第1次ウェーキ島攻略戦で撃沈された駆逐艦「疾風」

ウェーキ島の米軍基地には、海兵隊からなる守備隊のほか飛行場設営の民間作業員1200人がいた。ウェーキの戦闘で、彼ら民間人が軍事訓練も受けず自衛の手段も持たぬまま日本軍の攻撃に晒(さら)された反省から、米海軍は“海の蜜蜂(シービーズ)”と呼ばれる建設大隊を創設、民間人に海軍の階級を付与し軍事訓練も施した。以後、彼らは各戦場で海兵隊と同時に島に上陸、基地や飛行場の建設から器材修理に至るまで重要な役割を果たすことになる。

「彼らが手にしたブルドーザーは、勝利のための道具の一つであった」(ニミッツ『太平洋海戦史』)

負け戦に学んだ米軍

米軍はこの負け戦から学び、速やかに実施し、その後の戦闘に活かしたのだ。

一方、日本海軍には、ウェーキでの体験を基に設営隊員の急速養成や増員、用具の機械化を急ぐ機運は生まれなかった。作業員は敗戦まで軍属扱いだった。最初にガダルカナルに上陸し飛行場建設に従事した設営隊員は、米軍の来襲を受け、食糧だけでなく武器さえ持たされぬままジャングルに置き去りにされ、絶命して果てた。人力に頼りながら、肝心の作業員の不足に直面した海軍は、急場凌(しの)ぎの策として服役中の囚人を大量に動員するようになる。

同じく撃沈された駆逐艦「如月」

飛行場設営能力の低さは、ソロモンやニューギニアなど島嶼争奪戦で敗退を重ねる原因となった。日本海軍がブルドーザーやロードローラー、トレンチャー(溝掘機)などの整備に本腰を入れたのは、もはやガダルカナル奪還の可能性が無くなった昭和17年後半以降であった。軍中枢に籍を置くエリート幕僚は、大砲や魚雷、せいぜいが飛行機には目が行っても、軍属が扱うツルハシやもっこの機械化・近代化に知恵を絞ることはなかった。

僅か4機のグラマンに翻弄(ほんろう)され、制空権の無い中での島嶼攻略が如何(いか)に難しいかを悟ったはずが、その体験はソロモンの戦闘で活かされず、また島嶼攻略戦での艦砲射撃の威力に目を向けることもなかった。ガダルカナル失態の兆しは、ウェーキの戦いの中に宿っていたのだ。