
かつて故郷の墓参りに行った時、ずいぶん街の雰囲気が変わっていたことに驚いた。駅前の商店街は再開発で広々とした空間になり、無機質なビル街となっていた。
知人に聞くと、商業の中心は郊外の大型商業施設になっているという。行ってみると、確かにさまざまな大型施設が並び、繁盛している。郊外であるために駐車場も広い。買い物をするには便利だが、その地方特有の個性が薄れ、どこにでもあるような印象を否めなかった。
この時期は、新型コロナウイルス禍で控えていた墓参りに、ようやく出掛けられると帰省する人が少なくないはず。子供のころの記憶と比べて故郷を見ると、その変貌に失望するかもしれない。
再開発によって自然が少なくなっていくのは仕方がないが、幼少時の光景と大きく違っているのは寂しい気がする。住んでいた場所も、遊んだ野原も、通った学校も昔のままではない。両親や親戚の家が引っ越ししているケースもある。
感傷的になりやすいのは、故郷に帰ると過去の痕跡ばかり見つけようとするからだろう。もし故郷にずっと住んでいれば、そんな思いはしないはずだから。
詩人の室生犀星は「故郷は遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても/帰るところにあるまじや」(「小景異情―その二」冒頭)と歌った。遠くから思い、1年に1度墓参りに帰る。それが故郷というものかもしれない。



