【上昇気流】(2023年3月12日)

菜の花

菜の花の季節である。思い出すのは、東京の市ケ谷から飯田橋にかけての神田川の土手に咲いた菜の花のこと。普段はくすんだような土手が黄色のペンキでも塗られたかのように鮮やかだった。大学に通っていた時は、電車の車窓から見える菜の花に心を癒やされる気がしたものである。

春には故郷でも菜の花が野や畑を埋め尽くしたが、その時は感銘を受けることはなかった。自然が豊かだったので、菜の花が目立たなかったせいもある。

それに比べると、東京は無機質なビル街や舗装された道路ばかりで、自然があまり感じられないことがあったかもしれない。ただ、傾斜が急な土手に誰が種をまいたのだろうかと不思議に思っていた。ある日の国文学の講義でその話が出た。

それによると、寒々とした土手に人が何かをまいている光景を目撃したそうだ。何をしているのだろうと思っていると、春になって菜の花が一斉に咲き出した。そこで初めて意味を知って感動したという。

その後は無償の行為についての教訓めいた話になったが、毎年咲く菜の花を見ることが都会生活の慰めとなった。以来、総武線の電車でこのあたりを通るたびに、講義の内容はほとんど思い出さないが、菜の花の話だけは忘れずにいる。

国民的な作家の司馬遼太郎の忌日は「菜の花忌」として知られているが、もう一人、1953年のきょう亡くなった詩人の伊東静雄の忌日も「菜の花忌」と呼ばれている。