ヘロドトスの『歴史』と旧約聖書 バビロニアに捕囚された民

ユダ国に攻めてきたスキタイ

ヒンノムの谷から遠望したエルサレムの旧市街

ヘロドトス(前484年ごろ~前425年ごろ)が著した『歴史』は、全ギリシャを危機に陥れたペルシャ戦争について、原因を究明するために東方世界を訪ね歩き、見聞した事どもを記録していた。登場するのはリュディア、メディア、バビロニア、ペルシャ、エジプト、スキタイ、ギリシャなどで、諸民族が闘争しつつ世界史を形成した様相が描かれている。

旧約聖書には、ほぼ同時代のイスラエルの歴史が記録されている。当時の世界を考える上で二つの文献は、対になった存在だと言えよう。古代イスラエル史を知るためには周囲の諸大国の興亡史は尽きない興味を誘う。

小紙の読書欄「古典を楽しむ」でヘロドトスの『歴史』を取り上げ(2005年11月~07年6月)、その世界を紹介した。イスラエルについてどのような記述を残していたのかにも興味があったが、その名が出てくることは無かった。

そのころのイスラエル史を整理すると、前597年バビロニアによる捕囚が始まり、前587年エルサレムを破壊。前539年ペルシャがバビロニアを征服、シリア・パレスチナはペルシャの属州となり、捕囚民の帰還が許されて、前520年帰還民によって神殿が再建される。

ヘロドトスの旅行年代は分からないが、すでにイスラエルの民はパレスチナに帰還していた。が、ペルシャの属州にすぎず、目立たず、存在感はなかった。

捕囚との関連でヘロドトスが記述しているのは、バビロニアのネブカドネザル2世(前634年~前562年)による大規模な建造物の造営だ。イスラエルの民もここに駆り出されたが、その名称は登場しない。

ヘロドトスがバビロンを訪れたか否かは両説あるが、いずれにせよ、ペルシャのクセルクセス1世によって破壊された後のこと。ヘロドトスは荒らされる前の栄華を知るバビロン人の話を記したようだ。

ヘロドトスはまた、黒海北岸で形成された騎馬遊牧民スキタイに関する詳細な記録を残した。実地調査に赴き、周辺まで関心を広げ、起源、王の系譜、諸部族、風俗、地誌を記した。

興味を抱いた理由は、攻めてきたペルシャ軍にギリシャ軍は散々な目にあったが、スキタイは彼らを撃退していたからだ。

考古学者、雪嶋宏一氏の『スキタイ騎馬遊牧国家の歴史と考古』(雄山閣)は、最新の考古資料からスキタイ王国の興亡を叙述し、ヘロドトスの記述の中に、パレスチナへの言及があったことを教えてくれる。

「ここにおいてメディア人はスキュタイ人と交戦したが、戦いに敗れて支配権を奪われ、スキュタイ人は全アジアを席捲したのである」(1巻104節)

スキタイは小アジアからアッシリアの領域、パレスチナ、エジプトの境界まで進出した。その支配は28年間に及んだという。これと照合する記述が「エレミヤ書」に記録されている、と雪嶋氏は指摘する。

「見よ、民が北の国から来る、大いなる国民が地の果てから興る、彼らは弓とやりをとる。彼らは残忍で、あわれみがなく、海のような響きを立てる。シオンの娘よ、彼らは馬に乗り、いくさ人のように身をよろって、あなたを攻める」(6章22節)

前627年から前622年にかけての出来事だ。捕囚前、ユダ国ヨシア王の時代とされる。パレスチナではスキタイの青銅製両翼鏃と三翼鏃(ぞく)が多数出土している。

(増子耕一、写真も)