特別展「川をはさんだ2つの宿場」北上市立博物館 

商人の「黒沢尻」と正規の「鬼柳」

岩手県北上市は交通の要衝として発展した。北上市立博物館では特別展「川をはさんだ2つの宿場~江戸時代の黒沢尻(くろさわじり)と鬼柳(おにやなぎ)~」を開いている(来年1月9日まで)。入り口の床には大きな航空写真があり俯瞰(ふかん)できる。

後に黒沢尻は大きく発展し現在の中心市街地へとつながるが、鬼柳はそれほどでもなかった。その違いはなぜか?

当時の絵図や観光ガイドブック、古文書、大名行列の絵などと合わせ両宿場への理解を深めることができよう。

まず図下の鬼柳だが、奥州街道の正規の宿場で、南の仙台藩との藩境にあった。

江戸時代の旅は基本的に徒歩で、荷物は馬で運ぶ。人員や馬が必要な時は各宿駅で手配する。宿駅は荷運びの労働者や替えの馬を用意し、人と物の移動・流通に重要な役割を担ったが、江戸時代の『道中記』には、鬼柳の地名はあっても黒沢尻の地名はなかなか見つからない。

二つの宿場とも江戸時代前期に本格的に整備された。黒沢尻は慶長9(1604)年に大葦原(おおあしはら)を刈り近隣の村人を移住させてできた町だ。

参勤交代で両宿場を利用したのは主に盛岡藩主と八戸藩主。同館によれば、17世紀中頃には公共交通網がおおむね整備され、17世紀後半になると商人の活動や町人・農民による寺社参拝の旅で賑(にぎ)わう。

江戸時代後期には、黒沢尻は鬼柳をしのぐ町として発展し、旅館や衣類、薬、日用品を扱う店が約120件並び、有力商人が26人もいた。

これは、約1・2㌔㍍東の、盛岡藩の藩米輸送の拠点・黒沢尻河岸(かし)と大きく関係している。大型船と小型船が荷物を積み替える中継港であり、物資の集散拠点だった。同展の資料では明治11(1878)年に戸数322戸、人口1470人に増加。それに比べ鬼柳は195戸、928人だった。

担当者は「江戸時代の地図と比べ痕跡が残っている箇所もある。自分達が暮らす町の成り立ちを考える参考にしてほしい」と語る。

(伊藤志郎、写真も)