加賀藩上級武家の詳細な年始

加賀藩前田家に仕えた上級武士が、お正月をどのように過ごしたか、その詳細が金沢市の前田土佐守家資料館で公開されている。開催中の企画展「新春を祝う」で、所蔵の古文書や正月の飾り物など20数点を展示し、当主ならではの慌ただしい様子を伝えている。(文・写真日下一彦)
古文書や正月の飾り物20数点
市中に受け継がれた天神信仰
2階の第2展示室に上がると、中央に畳2枚ほどの立派な天神堂が設置されている。菅原道真を祀(まつ)る天神社を小型化した模型で、加賀藩では道真を祖神として崇拝していたことから天神信仰が篤(あつ)く、土佐守家に限らず、その信仰は市中にも深く受け継がれ、特に男子がいる商家では年末年始に天神堂や天神像を飾るのが、当然の年頭行事となっている。
土佐守家に展示されている天神堂は、第17代前田利建(としたつ)(1908~88)の幼児期に祀られ、その後、土佐守家13代当主だった前田正昭(1920~2007)の幼児期に贈られたと伝わる。これをみても、両家の親密な関係がうかがえる。
同家に残る伝来の日記『起居録』を見ると、元旦には当主は午前4時から5時に起床し、「奥」で家族と共に新年を祝った。その後、午前8時には登城して、藩主に年賀のあいさつをしている。
その際、家臣の義務として馬代と太刀代を上納するのが年頭の仕来りで、そのお礼を兼ねた手紙が藩主から届いている。退城すると、同家を訪れる年賀の客と対面したり、自らもあいさつに出掛けるなど慌ただしい。それは普通元旦から15日ごろまでだったが、悪天候などが続き、場合によっては2月初めまで続くことがあった。
2日は当主にとって極めて重要な仕事、遺書を書き替えている。藩政時代は財産のみならず、家名や職業が引き継がれたため、遺書は家の存続には重要だった。
そこには、当主がもし病気などで他界した場合、跡継ぎを誰にして欲しいか明確に示した他、藩主から受けたご恩を列挙し、お礼の言上(ごんじょう)も書き添えて、忠義を尽くしている。午後になると城内で歌会始が開かれ、それに参列し深夜まで続いた。
3日は天徳院(てんとくいん)と宝円寺(ほうえんじ)を参詣している。天徳院は3代藩主利常夫人の球姫を祀り、宝円寺は藩主家の菩提(ぼだい)寺だった。これが終わると、土佐守家の菩提寺桃雲寺(とううんじ)に詣でた。興味深いのは天徳院と宝円寺はどんな悪天候でも、毎年欠かさず詣でているが、桃雲寺にはその時々の天候で取りやめたり、延期したりと緩やかだった。それだけ藩主家への配慮が強かったことがうかがえる。4日は射初めが行われた。
年始のあいさつは藩主と家臣の間のみにとどまらず、家臣同士も盛んに行き来している。訪問先が年始回りで留守のことも結構あったようで、その時は自身の名前の書かれた札を置いて訪問を伝えた。
こうして見ると、金沢の城下はお正月にはほとんどの武士が年始のあいさつ回りに動いていたようだ。この他、茶会や供応、謡初めなどもあり、「上級武士たちはお正月にはのんびりできず、場合によってはあいさつ回りが2月までずれ込むこともあり、慌ただしいお正月だったのではないか」(同館学芸員の竹松幸香さん)。



