国敗れても故郷と歌あり 高野辰之が晩年を過ごした野沢温泉村

読書と野山の散策村人と交流の日々

「斑山文庫」の前に立つ高野辰之の胸像

「故郷」「朧月夜」などの文部省唱歌を作詞した国文学者、高野辰之はその晩年を生まれ故郷に近い長野県野沢温泉村の別荘で過ごし、そこで70年の生涯を閉じた。辰之は一般的には唱歌の作詞家として知られるが、国文学や演劇、歌謡の研究者として大きな業績を残した学者でもある。野沢温泉村には、辰之を記念して「おぼろ月夜の館斑山文庫」があり、その事績をしのぶことができる。

高野辰之は明治9年、長野県水内郡永江村(現中野市)に農家の長男として生まれる。飯山の小学校まで7㌔の道のりを歩き、他の子供たち同様、自然の中で元気に育ったが、小学校の頃から向学心旺盛で読書好きの少年だった。

長野県尋常師範学校に進み、地元の高等小学校の教師となるが、学問への情熱やみがたく、明治31年に上京。国文学者で東京帝大教授の上田萬年(かずとし)について、国語・国文学の研究者となる。同42年には文部省小学校唱歌教科書編纂(へんさん)委員となり、その翌年、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授となる。

復元された高野辰之の書斎

そして明治44年から大正3年にかけて、東京音楽学校の同僚の作曲家、岡野貞一とのコンビで「紅葉」「春の小川」「故郷」「朧月夜」などの文部省唱歌を世に送り出すのである。

そういう中で高野は研究活動を進め、大正14年、論文「日本歌謡史」で、東京帝大の文学博士の学位を授与される。さらに翌年この研究で学士院賞を受賞。大正14年、東京帝大の博士となって帰郷した高野は、故郷永江村の人々の盛大な歓迎を受ける。「末は博士か大臣か」と言われた時代である。まさに「志を果たしていつの日に帰らん」を実現した。

辰之が野沢温泉の源泉が湧出する「麻釜(おがま)」近くの廃屋を改造して別荘にし「対雲山荘」と名付けたのは昭和9年。名前の由来は、この高台は眺めがよく、戸隠、飯縄(いいづな)、黒姫、妙高などの山々が見えるが、いつもどこかに雲がかかって全部を一望するのはまれなためという。昭和16年に軽い脳出血にかかり、昭和18年には対雲山荘に隠居する。

大戦末期ではあったが、辰之は読書と温泉町や周囲の野山の散策を楽しみ、村人の草相撲、盆踊りに興じる悠々自適の生活だったという。辰之がこの地で亡くなるのは敗戦後間もない昭和22年。自身、教科書作りや唱歌の作詞で日本の国民国家建設に関わってきた辰之が、どんな心持で8月15日の終戦を迎えただろうか。

その唱歌の中で、日本の四季と自然の美しさを歌った辰之なのだから、国は敗れても、美しい故郷の山河は残っているという思いで、自らを慰め、未来の世代に希望を託したのではないか。かつて対雲山荘のあった辺りから、晴天に恵まれ戸隠や黒姫を一望しているとそんな思いが湧いてきた。

猪瀬直樹氏の『唱歌誕生ふるさとを創った男』(文春文庫)は、高野辰之の姪(めい)、原田武子の大陸からの引き揚げ体験で終わっている。武子が乗り込んだ引き揚げ船の船倉では日本人同士が食料の配給をめぐって大声で怒鳴り合っていた。その時、誰かが「菜の花畑に~」と「朧月夜」の歌を歌い出し、女学生たちの合唱となり、争いはやんだ。

昭和20年、東京・代々木の高野の自宅は空襲に遭うが、コンクリート造りのため蔵書は無事だった。「おぼろ月夜の館」にある斑山文庫は、遺族の好意で、代々木の自宅から辰之終焉(しゅうえん)の地、野沢温泉村に移されたものだ。

(特別編集委員・藤橋進)