
米軍普天間飛行場(宜野湾市)返還後の跡地利用について考える県民フォーラム「普天間飛行場未来予想図2・0」(主催=沖縄県、宜野湾市)が5日、同市の沖縄コンベンションセンターで開かれ、新しい街づくりについて話し合われた。跡地利用の形として、公園を中心に自然と共存した街づくりというコンセプトで参加者は一致した。(沖縄支局・豊田剛、川瀬裕也)
「自立分散型」社会を目指せ 涌井氏
魅力的で持続可能な開発を 真喜屋氏
土地に付加価値付け合意へ 又吉氏
普天間飛行場は、沖縄本島中南部にある宜野湾市のほぼ中心部に位置する。市面積の約4分の1を占め、基地の周囲を囲うように市街地が形成されている。そのため、市内を移動する場合、迂回(うかい)を強いられている現状がある。
沖縄県と宜野湾市は2016年(平成28年)、「普天間飛行場跡地利用基本方針」をまとめ、翌年に「同行動計画」を策定。20年(令和2年)7月には跡地利用計画策定に向けた「全体計画の中間取りまとめ(第2回)」を確定するなど、具体的な取り組みを進め、大規模公園や基幹道路の整備を軸に、市全体の「魅力的な環境づくり」を目指している。

フォーラムの冒頭、主催者を代表して、玉城デニー県知事のあいさつが代読されたのに続いて、松川正則宜野湾市長が登壇し「(宜野湾市は)いびつな都市形成を余儀なくされてきたが、返還後の跡地を整備し、宜野湾市および沖縄県の新たな人口拠点となり得る都市を目指していく」と述べた。
フォーラムでは、東京都市大学特別教授の涌井史郎(わくいしろう)氏が「沖縄のポテンシャルを生かした価値ある跡地利用に向けて」と題し基調講演した。涌井氏は、都市開発について、「中央集権型」の多機能都市を求めるのではなく、地方の強みである自然や伝統文化を生かした「自立分散型」の社会を目指すべきだと主張した。

那覇市新都心地区や北谷町のアメリカンビレッジなど大型商業施設やマンションを中心としたこれまでの跡地利用を念頭に、涌井氏は「(跡地を)埋め尽くすことが開発ではない」と持論を展開し、「未来への投資」として土地を緑地公園などの形で残しておくことを提案した。
続いて行われたパネルディスカッションでは、都市政策が専門で沖縄持続的発展研究所所長の真喜屋美樹氏は、「跡地利用と環境・エネルギー問題は切っても切り離せない関係」であると述べ、独自の条例などを策定し、「環境をコントロールすることで、魅力的であり続ける持続可能な街づくりを進めていくことができる」と指摘した。
宜野湾市軍用地等地主会会長の又吉信一氏は、「地権者との合意形成をどのように進めていくかが大きな課題だ」と話した。一部の地権者が公園や道路としての土地提供に難色を示していることについて、「公園を造るにしても、水と緑(を残し)その中に歴史文化も反映しながら、いかにして付加価値を付けていくのかが重要」だと語った。
又吉氏は「一番良い例」として、市内の米軍キャンプ瑞慶覧(ずけらん)・西普天間住宅地区跡地を琉球大学病院にする合意形成のプロセスを紹介した。
現役の琉球大生で、OrgaNect合同会社代表の福原海里氏は、若い世代の意見として、跡地に海外の研究機関などを誘致する場合、「(地元の)子供たちにもつなげて、視野を広げる方向に」向かう計画が重要だと主張。また家庭単位での野菜栽培や、飲食店などの生ごみを堆肥に変えて畑に戻すなど、「循環型社会のモデル都市」を造ることが大切だと述べた。
一方で、真喜屋氏が「いつ返ってくるか分からない中で、自治体が都市計画を進めるのはほぼ無理(に等しい)」と発言するなど、返還の見通しが不透明な現状そのものを問題視する場面もあった。
日米両政府は1996年4月、県内移設を条件に普天間飛行場を返還することで合意しているが、2009年9月に発足した民主党の鳩山由紀夫政権が「最低でも県外移設」を掲げるなど、迷走を繰り返してきた。さらに移設予定地の名護市辺野古沿岸で確認された軟弱地盤の存在で、総工費は膨張する見込みで、普天間の返還時期は30年代以降になるとみられている。
政府は、日米同盟の抑止力維持と普天間飛行場の危険性除去には、「辺野古移設が唯一の解決策」との姿勢を維持しており、当事者の宜野湾と名護の両市長は同意している。一方で、10月に2期目に突入した玉城デニー知事は移設反対の姿勢を堅持している。
市内で飲食店を営む男性は、「県が移設作業に協力的にならなければ普天間返還はどんどん遅れる。玉城知事には移設の原点に立ち返って政府と向き合ってほしい」と苦言を呈した。
普天間移設を一日も早く実現するためには、移設の重要性と跡地利用のメリットを丁寧に説明し、県民の理解を得ていく必要がある。



