.jpg)
鉄道開業150年を迎えて、テレビなど特集番組が放送されたが、それにちなんだ出版の方はあまりないようだ。鉄道は日本の近代化、戦後は高度経済成長の牽引(けんいん)車となったが、文学でも鉄道文学と言ってもいいような作品は少なくない。夏目漱石の『三四郎』は三四郎が東京へと向かう列車の中の情景から始まる。志賀直哉の『網走まで』、芥川龍之介の『蜜柑』も鉄道が舞台だ。詩では萩原朔太郎の「夜汽車」が思い浮かぶ。
なぜ列車内の情景が多く書かれるのか。長い旅なら旅情、そうでない場合は乗り物や移動がもたらす人間の情感への働き掛けだろうか。そういう情感とは別に、とにかく列車に乗って移動するのが好きだったのが、百鬼園・内田百閒(ひゃっけん)だった。その鉄道随筆『阿房列車』の冒頭部分にこうある。
「用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」
これは、まさに百鬼園の「乗り鉄宣言」と言ってもいい。第三阿房列車までこの鉄道随筆は書かれ、車窓からの風景のほか、地方の風物や人々とのやりとりも書かれているが、旅の基本は、ある路線を汽車に乗って行くことにある。
この随筆があって、宮脇俊三のたくさんの乗り鉄本や阿川弘之の『南蛮阿房列車』などの随筆が生まれた。元祖・乗り鉄、内田百閒にスポットを当てたTV番組を見てみたい気がする。
(晋)



