宗教から読む徳川家康の生涯―人格形成の基礎に内的禅宗

市谷亀岡八幡宮宮司・梶謙治氏に聞く

教団分割し巨大化防ぐ

檀家制度で寺の経営安定

来年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公は、戦国時代を終わらせ、江戸の平和を開いた徳川家康。それを政治と宗教の関係で読むと、両者の葛藤が生んだ戦いの時代から、政教関係の安定で平和を実現した時代への移行期だ。太田道灌が江戸城の西の守りとして鎌倉の鶴岡八幡宮から八幡神を勧請(かんじょう)した市谷亀岡八幡宮の梶謙治宮司に話を聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

かじ・けんじ 1965年、東京都生まれ。先祖は諏訪大社の社家。法政大学文学部日本文学科卒業後、國學院大学文学部神道専攻科を修了し神職に。27歳で父の後を継ぎ、室町時代に太田道灌が江戸城の守護神として鶴岡八幡宮の分霊を祀った市谷亀岡八幡宮の宮司となる。氏子による雅楽の継承やユニークなお守り、祈祷(きとう)などにも積極的に取り組んでいる。著書に『神道に学ぶ幸運を呼び込むガイド・ブック』(三笠書房)がある。

――徳川家康が最も尊敬していたのが源頼朝です。

家康は『吾妻鑑』を全国から収集・復元して愛読し、中でも武家政治を創始した頼朝から多くを学んでいます。

――近代日本の土台に近世江戸時代があったと言われますが、政治と宗教との関係からは?

分かりやすいのは仏教で、キリシタン取り締まりのために始めた寺請(てらうけ)制度は、結果的に寺の経営を安定させ、明治初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)でもなくならず、今に続いています。頼朝が一番苦労したのは京の朝廷との関係で、そのため幕府は鎌倉に開き、よほどのことがないと上京しませんでした。北条義時が承久の乱で勝利したのが、幕府が朝廷を統制する始まりで、家康が成文化した禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)が明治の立憲君主制につながっています。

――家康の旗印は「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」でした。

源信の『往生要集』にある言葉ですね。「穢れたこの世を厭い離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土をこい願う」という意味で、これには次のようなエピソードがあります。

家康が今川義元の人質だった松平元康の時代、織田信長との桶狭間の戦いで義元が討たれたため、松平家の菩提寺(ぼだいじ)である岡崎・大樹寺に逃げ隠れた元康は、墓前で自害しようとしました。その時、住職の登誉上人が元康に告げたのがその言葉で、あなたには戦国の世を終わらせる使命があると諭した。思い直した元康は元の岡崎城に入り、今川からの独立を宣言したのです。

――大樹寺は浄土宗です。

家康の5代前、4代当主親忠の時代から松平家は浄土宗になっています。武士の信念に近いのは禅宗ですが、死後の安寧を思うと、やはり浄土宗に惹(ひ)かれたのでしょう。西方極楽浄土を差配している阿弥陀如来(あみだにょらい)への信仰は、補陀落(ふだらく)信仰の観音菩薩より一段上で、しかも分かりやすかったのです。

頼朝が政治の中心として建立したのは鶴岡八幡宮ですが、父義朝の菩提を弔うために建立したのは勝長寿院(しょうちょうじゅいん)で、本尊は金色阿弥陀仏でした。

――幼少期から少年期にかけて家康は、臨済宗臨済寺の住職で軍師の雪斎に学んでいます。

それが家康の人格形成の基礎になったと言えます。面壁九年の達磨(だるま)大師のように、禅宗は仏教諸宗派の中でも最も釈迦(しゃか)仏教に近い教えで、自らの内面を深め、死に臨んでも平常心でいられるよう、揺るがない信念を鍛えたのです。考えに考え、やがて無になる心境は、武士の精神的修養に向いていたのでしょう。

禅宗でも曹洞宗の道元が政治と距離を置いたのに対して、臨済宗の栄西は政治との関わりをいとわず、また漢文でのやり取りに長けていたことから、中国との交易の実務を担当する僧たちも輩出しています。

――家康が一番苦労したのが三河一向一揆でした。

家臣が二分される戦いで、腹心の本多正信も一揆側に付きましたから。苦心の末に一揆を鎮圧した元康は、反乱した家臣も許す寛大さで、それが徳川主従の結束の強さとなります。

一向宗(浄土真宗)に一揆が多いのは、阿弥陀一仏への絶対的帰依が強く、一神教に近い信仰だからでしょう。流布する方も流布しやすいし、帰依する方も帰依しやすい教えです。

浄土真宗の中興の祖・蓮如は御文章で「後生の一大事」と言っています。来世での安楽を願い、南無阿弥陀仏を唱える信心を忘れるなというのが本意ですが、今生に絶望した人たちが、極楽浄土での救済に望みを託し、死を恐れず戦うようになるのも無理はない。「進まば往生極楽、退かば無間地獄」と叫び、むしろ旗を掲げて戦った加賀一向一揆のように、蓮如の制御も利かない広がりを見せたのです。

――その頂点が織田信長の石山合戦ですね。

戦国時代最大の宗教武装勢力になった本願寺と、天下布武(ふぶ)を目指す信長との戦いは10年に及びました。戦国武将は誰も一向宗との壮絶な戦いを経験しており、それによって宗教の力が削(そ)がれたので、家康の宗教政策が成功したともいえます。信長・秀吉と家康の違いは、一向宗も生かす道を用意し、武士政権と共存できるようにしたことです。一方で、教団の巨大化を防ぐため、本願寺は東西に、曹洞宗は二分しました。

――家康の宗教ブレーンが臨済宗の崇伝と天台宗の天海です。

 家康は崇伝とキリシタン禁教令に始まり、寺社政策、武家諸法度、禁中並公家諸法度などの政策を作ります。

 ――寺請制度とは?

人々をどれかの寺の檀家(だんか)とし、寺請証文を受けることでキリシタンではないと証明させたので、檀家制度や寺檀制度とも呼ばれます。寺では戸籍に当たる宗門人別帳が作られ、旅行や住居の移動にはその証文が必要とされました。今の市民課のような役割を寺が務めたのです。各戸に仏壇が置かれ、法要に僧侶を招く慣習ができ、寺は一定の収入が保証されるようになります。

禁中並公家諸法度によって天皇と公家は政治に関わらず、文化に専念するようになります。君臨すれども統治せずという仕組みを強制的につくったのです。

――駿府城で死去した家康の遺体は駿府の久能山に葬られ、一周忌を経て日光に改葬され、東照大権現として祀(まつ)られました。

神号を権現と明神のいずれにするかが天海と崇伝の間で争われ、秀吉が吉田神道に基づく豊国大明神だったため明神は不吉とされ、天海が推す比叡山の山王一実神道により薬師如来を本地(ほんじ)とする権現とされたのです。


【メモ】市谷亀岡八幡宮には太田道灌の軍配団扇(うちわ)や江戸時代の銅の鳥居など、歴史を語る文化財がある。前者は太田道灌が奉納したもので、栗色の軍配団扇。銘がないので製作年代は不明だが、室町時代の団扇を知る上で貴重だ。後者は文化元年(1804)の建立で、高さ5メートル。直径50センチの柱には442人の寄進者と職業が刻まれていて、当時の社会と信仰がうかがえる。梶宮司はペットお守りを出したり、ペットとの参拝を認めたり、神社を進化させている。