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ウクライナ戦争でウクライナ南部クリミア半島とロシア本土を結ぶ「クリミア橋」が爆破され、世界の耳目がこの半島に向いた。それでクリミア戦争(1853~56年)が頭に浮かんだ。
ロシアの文豪トルストイは若き頃、この戦争に従軍して「セバストポリ包囲戦」の激戦に遭遇した。それを機に戦争と平和について思索を巡らし、数々の名作を遺(のこ)した。英国の看護婦ナイチンゲールはクリミア戦争の負傷兵を献身的に助け、統計に基づく医療衛生改革を成し遂げて「近代看護教育の母」と呼ばれた。
そんな“成果”もあったが、クリミア戦争ほど不毛の戦いはない。今日のウクライナ戦争もクリミア戦争も仕掛けたのはロシアである。
帝政ロシアの場合、地中海に進出しようと軍事行動を開始した。それに反発したトルコと英仏などが参戦し、双方で75万人もの戦死者を出した。とりわけ近代兵器や輸送手段に劣るロシアは55万人が戦死し、南下を断念させられた。
ところが、南がダメなら東があると言わんばかりに東方進出の野望をたぎらせ、1860年にはロシア軍の前哨基地、ウラジオストク(東方を支配する街)を設けた。後年、日露戦争に至ったことは周知の通りである。
プーチン大統領のロシアが前轍(ぜんてつ)を踏まないとは限らない。今ほど地球を俯瞰(ふかん)しなければならない時もない。それが、やれ国葬違法、教団潰(つぶ)せの井の中の蛙のごとき国会だ。大海を知ろうとしない「戦後レジーム」である。



