徳島の猫神さん お松大権現 土地訴訟が伝説の起源 社主 阿瀬川寛司氏に聞く

猫好きの聖地に 勝負事祈願で受験生参拝

徳島県阿南市加茂町に、合格祈願に受験生が多く参拝し、「猫神さん」と呼ばれ親しまれている神社「お松大権現」がある。鳥居前には大きな招き猫がいて、境内に入ると猫大仏をはじめいろいろな姿の猫だらけ。願いがかなったお礼にと信者たちが納めた招き猫は1万体を超えるという。「伝承の館」が開館したと聞き、阿瀬川寛司(ひろし)社主に同社の伝承などを聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

あぜがわ・ひろし 昭和21年、徳島県の生まれ。神仏習合の神社なので、天孫降臨に始まる中臣の大祓の祝詞は唱えず、代わりに独自の御詠歌を唱え、般若心経を上げているという。神事などは知り合いの神職に教わったもので、いわゆる神職の資格は取っておらず、単立の宗教法人で神社本庁にも入っていない。特別な出来事をきっかけに庶民の間から生まれた信仰としてとても興味深い。

――今年の干支(えと)のトラはネコ科なので、初詣に初めて来ました。受験生とみられる生徒たちが多かったですね。

受験戦争といわれた時代には、受験生の参拝客でバスが満員になるくらいで、中には素足でお百度を踏む人もいました。それから比べるとかなり少なくなりましたが、おかげで多くの信者さんで支えられて維持できています。

――伝承の館を造られたのは?

 40年ほど前、お松の話に引かれた切り絵画家の第一人者・宮田雅之さんが当社に2度来訪され、お松の物語を十数点の作品にされました。その修復がやっと完成したので、私の11代前の庄屋だったわが家に伝わる古文書やお松の系図などと共に、散逸しないように展示し、参拝者が憩える場所にもしたいと思い新築したのです。

――お松大権現の背景にある、有馬(福岡)、鍋島(佐賀)と並ぶ日本三大怪猫伝の一つとはどんなものですか?

 江戸時代初めの天和、貞享年間(1681~86)加茂村(現・阿南市加茂町)は不作続きで、庄屋の西惣兵衛は村民の窮状を救うため、所有の田5反を担保に、近在の富豪野上三左衛門から金を借りたのです。

 返済期限が近づいたので、通りがかった三左衛門に金を返したのですが、出先のための証文は持っておらず、受け取れないままでした。その後、惣兵衛が病死したので、妻のお松は、何度も証文を返すよう求めたのですが、三左衛門は応じようとしません。そればかりか、「金は受け取っておらぬ」と言い、担保の5反地まで取り上げてしまったのです。

――それはひどい話ですね。

 当地は地形からよく洪水に見舞われており、惣兵衛が借金したのも、洪水の被害に遭った村人たちを救うためだったようです。

――窮地に陥ったお松はどうしたのですか?

思案の末、お松は奉行所に訴え出たのですが、三左衛門から賄賂を受け取っていた奉行の越前は、美しいお松に食指を動かそうとさえする始末で、奉行の意に応じなかったお松に下された裁きは、一方的なものでした。

そこで、命を懸けて夫の無実を明かしたいと考えたお松は、貞亨3(1686)年正月、藩主の行列に直訴したのです。当時、直訴は死罪なので、同年3月15日、お松は処刑されてしまいます。その死の直前、お松は寵愛(ちょうあい)していた三毛猫に遺恨を話して聞かせたのです。

――それが怪猫伝につながるのですね。

やがて、三左衛門と奉行の家に化け猫が現れて、異変が続くようになり、やがて両家は断絶してしまいます。

そこで、お松の埋葬に関わった近くの真言宗太龍寺(たいりゅうじ)の僧が、彼女に「義理大権現」の神号を授け、境内に祠(ほこら)を設け供養したのがお松大権現の始まりで、当初は義理大権現と呼ばれていました。夫の墓所ではなく、離れた所に埋葬されたのは、神格(権現)としての計らいからで、寺なのに神としたのは、当時の神仏習合(しんぶつしゅうごう)の伝統によります。山の上にある太龍寺は、空海が修行したことで知られる四国八十八箇所第21番札所です。

――権現は仏や菩薩が仮に神の姿で現れたという意味の神号で、いわゆる本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)によります。

 その後、お松を祀(まつ)る祠は庄屋の敷地に遷(うつ)され、恩義を感じる村人らにひそかに守られてきました。明治、大正を過ぎ、昭和初期に、この伝承に興味を持った旅芝居の「春子太夫一座」が芝居に仕立て、興行したところ喝采を拍し、徳島だけでなく香川や高知をはじめ各地で演じられるようになったのです。映画化の話もあったのですが、戦争で中止になりました。

――信者が急増したのは現代になってからなのですね。民俗信仰としても興味深いものがあります。お松大権現になったのは?

 大正時代の末、徳島市長が祠に祈願して当選した礼に社殿を寄付し、そこに祠を収めたのを機に、「義理大権現」から「お松大権現」に改称しました。やがて、信者さんの寄付により拝殿も完成し、今日の姿になったのです。普通の神社のようにお札を作るようになったのも、昭和になってからです。神仏習合のため、御朱印も当初は「納経」と呼んでいました。

――境内にたくさんの招き猫をはじめ猫の像があるのは?

 お松の霊を慰めるためにと、信者が可愛(かわい)がっていた猫の像を納めるようになり、身近にあることから招き猫が増えたのです。いつしか今日の「猫神さん」と呼ばれるようになり、伝説の起源が土地の訴訟だったことから、勝負事に勝つようにとお参りする人が増え、それが合格祈願につながり、受験生がたくさん来るようになりました。猫大仏や猫不動などはいずれも信者さんが寄付されたものです。

――猫好きにはたまらない神社ですね。

 招き猫だらけの境内は「猫好きの聖地」とも言われ、徳島県内のみならず遠方から参拝に来られる方もいます。


【メモ】今年の元旦にお参りしたのは、世界一大きな虎の張り子「大虎」がある奈良・生駒山の信貴山朝護孫子寺(しぎさんちょうごそんしじ)、「信貴山の毘沙門(びしゃもん)さん」である。虎を祀る神社を探すと、四天王寺の鎮守社で聖徳太子の創建という大江神社があり、狛犬ならぬ狛虎があった。トラはネコ科なので猫を祀る神社を探して行ったのが徳島県阿南市のお松大権現。