
「全くとるに足らない権利侵害を理由に、世界人類の多くを戦争に引きずり込む者が、それでもキリスト教徒だと言って堂々と通用するものでしょうか」――。これは16世紀のオランダの人文主義者エラスムスの問い掛けだ(箕輪三郎訳『平和の訴え』岩波文庫)。
同時代の宗教改革はヨーロッパ・キリスト教社会に深刻な対立をもたらし、宗教戦争を引き起こした。エラスムスはそうした熱狂と一線を画し、イエスの福音に基づく寛容の精神を説いた。
彼は言う。神は動物には武器を与えられた、突進する牝牛(めうし)には角を、たけり狂うライオンには爪を、猪(いのしし)には牙を、山嵐には棘(とげ)を。しかし人間には違った。
「忌まわしくも恐ろしくもない、情愛と善意の刻みこまれた穏やかで柔和な表情を与えてくださったではないか。友愛に満ちあふれ、真心の流露に輝くまなざしを分けてくださったではないか」(二宮敬著『エラスムス』講談社)。
イエスは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイによる福音書)と説く。そのイエスを信じる者が平和ではなく戦争をもたらすとは――。その嘆きをエラスムスは語っている。
例年9月には、米ニューヨークで開催される国連総会で各国首脳が演壇で「世界平和」を訴える。とりわけ今年は、ウクライナに侵攻したプーチン露大統領への批判に満ちた。彼がロシア正教の信徒というならば、エラスムスの言を何と聞く。



