シンボリズムで読み解く縄文人の世界観 元北海道考古学会会長 大島 直行氏に聞く

土偶に込めた「再生」の願い 月が「不死」のシンボルに

内面性を探る研究が不可避

「北海道・北東北の縄文遺跡群」がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録され7月27日で、1周年を迎えた。遺産登録された遺跡のある自治体では、観光など地元の地域活性化につなげたいとしているが、北海道伊達市に在住する元北海道考古学会会長の大島直行氏は、縄文文化がブームになっている今日だからこそ縄文人の世界観に踏み込んだ幅広い分野からの学問的研究が必要だと訴える。(聞き手=湯朝 肇・札幌支局長)

 ――北海道・北東北の縄文遺跡群が世界の文化遺産に登録されて1年が経(た)ちました。大島先生はかねてから世界遺産登録には慎重な姿勢を見せていましたが、縄文遺跡の持つ価値は何だと思われますか。

おおしま・なおゆき 1950年北海道標茶町出身。札幌医科大学客員教授。医学博士。元北海道考古学会会長。著書に『月と蛇と縄文人』(寿郎社)、『縄文人の世界観』(国書刊行会)、『縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか-墓と子宮の考古学-』(同)

私は別に北海道・北東北の縄文遺跡群の世界文化遺産登録に反対していたわけではありません。また、将来的に仲間と募って「反対」などしようという気もありません。ただ、「縄文時代の持つ意味」をもう少し吟味すべきではないか、そうしてから「登録」に動いても良かったのではないかと思っています。

私は長い間、考古学を研究してきました。そして、あることがきっかけでドイツの人類学者ネリー・ナウマンの著書『生の緒-縄文時代の物質・精神文化-」を読んで、それまで自分が行ってきた学問には、しっかりとした「前提」がなかったことに気が付いて愕然(がくぜん)としました。

例えば「竪穴住居」という言葉があります。私を含めて考古学者は何の疑問を持つことなく使ってきました。果たして縄文人が竪穴を住居として使っていたかどうか、それについて誰も疑問を持つことなく検証さえしてきませんでした。でも本当に竪穴は住居だったのでしょうか。縄文遺跡を訪ねると伊達市にある北黄金貝塚もそうですが、茅葺(かやぶき)の家や土屋根を被せたものがあるものの、はっきりとした確証がないのです。

一事が万事で現在の縄文研究では、現代人が考えているような家族や村、さらには祭祀(さいし)なども縄文時代にもあっただろうという前提で、何の疑問も抱かず論述してきたことに気が付きました。ですから私としては、世界遺産登録はさておくとして、縄文の歴史的な意味について今から少しでも「答」を出すべきだと考えています。

――確かに縄文時代は「謎」が多いですね。

一番の大きな謎は「なぜ縄文時代だけが1万年以上長く続いたのか」という問題です。驚くべきことに、その答えを出さないままに世界遺産に登録されてしまいました。もちろんユネスコは、遺産登録に向けて遺跡の「普遍的な価値」を求めていました。それに対する日本側の回答には、誰の研究なのか分かりませんが、縄文時代には「定住生活」と「自然との共生」が行われていたと結論付けているのです。私にしてみれば、「本当に彼らは定住していたのか」「何をもって自然と共生していたと言えるのか」という疑問が起こります。こうした問題にもう一度、焦点を当てて検証することが今求められているのだと思います。

――大島先生はかねてから縄文人の精神性、すなわち彼らの世界観を重要視されていましたね。

これまでの縄文研究は、経済的及び合理的な価値観を基盤とした社会が想定され、それに基づいた分析や解釈が進められてきたように思います。そうした社会が目指すのは「発展」だと想定され、そうした社会を可能にした技術的革新や社会的発展の痕跡が探されたきらいがあります。そのことは、大集落、定住、交易などといった概念が使われてきたことによく表れています。

それに対して私は、縄文の社会がなぜ1万年以上も続いたのか、という点に対して、その要因としては、①経済的、合理的価値観を希求しない狩猟採集社会が継続したこと②人間同士の軋轢(あつれき)や対立、貧富の差が生じにくく、そのことがいわゆる「発展」などとは無縁の「安定した社会」の継続を可能にした? その精神的背景として、彼らが持つ「再生」あるいは「誕生」のシンボリズムを基盤とした多彩な造形の探索・創造にすべてのエネルギーが費やされた―ことが挙げられると考えています。

――縄文人が再生思想を有していたというのは、どのような点から考えられるのでしょうか。

先程挙げたドイツの人類学者ネリー・ナウマンは、ルーマニアの宗教学者ミルチャ・エリアーデの象徴理論を基盤に日本の縄文文化を読み解こうとしました。特にナウマンが力を入れて読み解いたのが土偶です。一方、彼女は縄文人の象徴の中核にあったものの一つが「月」であることを突き止めました。

人間にとって最も切実で悩ましい問題は「死」です。この死の恐怖から逃れることは人類にとって誕生以来大きな命題です。その命題への一つの答えが「再生」するものへの畏敬だったとナウマンは考えました。そして、その「死と再生」を象徴するものとして昔から誰もが考えたのが「月」だったというのです。

人類は「再生」のイメージを月の運行になぞらえ、月を「再生」そして「不死」のシンボルとして崇(あが)めるようになったと考えたナウマンは、土偶に見出される月の象徴的造形について言及し、さらに「蛙」や「蛇」、「川」、さらにはクリなどの植物に至るまでも「再生」のシンボルと捉えていきます。縄文人は「再生」に向けて効力の強いものを探し求めていきます。そうした観点から見ると、交易といった経済的な視点は生まれてきません。ナウマンの土偶研究は日本の縄文研究に新たな地平を切り開くものでした。

――それでは縄文の精神性、世界観を考える今日的意義はどの辺にあると考えますか。

私が伊達市内にある北黄金貝塚の丘に登った時、いつも考えるのは「噴火湾」の沿岸に貝塚が多いのは、縄文人がこの噴火湾を女性の子宮に見立てたからで、有珠湾や室蘭湾にも同じことが言えるということ。おそらく全国各地の貝塚分布がそうした「湾=子宮」の論理で成り立っているのではないかと思います。

これまで考古学は遺物の材質や形態などで分類する型式論や遺物の型式の年代を見る編年論を重視してきましたが、これはあくまでも資料の分類・整理のための手法であって、それをいくら精緻にしたところで縄文文化の社会的な位置付けや精神的な意味合いなどの読み解きは難しいのです。

従って、1万年以上続いた縄文人の世界観を知る手掛かりとして、解釈の基盤になる最も重要なのが人間の思考の根源ともいうべき「再生への願望(再生欲)」です。今後は、そうした再生のシンボライズを含めた縄文人の内面性を探る縄文研究に向かうべきだと考えています。そういう意味で幅広い議論・検証が必要ではないでしょうか。


【メモ】大島氏の語る縄文人の世界観は、考古学の分野を超え、文化人類学や神話学など幅広い視点から独自の理論を展開している。そして、それは極めて説得力がある。土器や石鏃(せきぞく)の形態や編年を論ずるのもいいが、縄文人は何を考えて生きていたのか、それがどうして1万年以上続いたのか、そうした命題に取り組む方が本質だろう。その本質に大島氏が挑んでいることは称賛に値する。