
1989年、ハンガリー社会主義労働者党(共産党)政権はオーストリアへの国境を開放した。その結果、多数の旧東独国民がこの国境を通過して西側の自由世界に殺到、旧東独社会主義統一党(共産党)政権が崩壊する契機となった。ところが、ドイツ公共放送ラジオ局が4日、「ハンガリー政府が旧東独国民のため鉄のカーテンを開いたのは当時の旧西独政府がハンガリーの債務を救済した見返りの可能性がある」と報じた。(ウィーン・小川 敏)
多くの旧東独国民は89年5月以降、ハンガリー国境を越えて西側に逃亡していった。8月には、最初の大規模な脱出があった。それを受け、ハンガリー政府は89年9月10~11日夜、国境を開放。数日で、何万人もの東ドイツ市民が西側に逃げた。ハンガリー政府は「鉄のカーテン」を切断することで東西両ドイツ分断時代に終焉を告げる歴史的役割を果たしたわけだ。
ハンガリーのネーメト首相は当時、「ハンガリーは何の見返りも求めていない。ハンガリーは人を売らない」と説明してきたが、ドイツ公共放送ラジオ文化局が入手した文書は、この主張に疑問を投げ掛けている。当時のチェコスロバキアのシークレットサービスが89年秋、旧東独秘密警察(シュタージ)に送った文書の中で、「当時の西独政府はハンガリーに経済的支援を提供し、その代わりに東ドイツから逃れたい人々のために鉄のカーテンを開かせた」ことを示唆していたという。独連邦公文書館のシュタージ記録局からの文書には、チェコ語からの翻訳というメモの下に大文字で「機密情報」と書かれていた。
チェコスロバキア情報機関の文書は「東ドイツ難民に対するハンガリー側の行動に、経済的、財政的、および外交政策上の理由があることは明らかだ」と述べ、その理由として「ハンガリーは西ドイツの銀行、連邦共和国に多額の借金を抱えていた。ハンガリーは債権者に25億ドル以上を支払わなければならない。ハンガリー政府は当時、銀行との立場を失わないために、国際金融市場で必要な資金を得ようとしていた」と説明している。

旧東西両ドイツ間では、西独側が東独の政治犯を引き取るために一定の資金を払ってきた。チェコスロバキアの情報機関からの情報が正しければ、ハンガリーと西独の間の取引でもこの慣行が実行されたものと受け取られている。
89年10月5日付のチェコスロバキアのシークレットサービスからの2番目の文書には、「ワルシャワの旧西独大使館で230人の東ドイツ難民の救済のためにハンガリーのモデルに基づいた解決策が取られた」と記述されていたという。この文書も「機密」と書かれていたという。
これらの文書は、ベルリンの壁崩壊の歴史に新たな光を当てることになるかもしれない。明確な点は、ハンガリーが国境開放の見返りをドイツ側に要求しなかったという主張は、チェコスロバキアのシークレットサービスのリポートの内容とは一致しないことだ。
欧州で2015年、中東・北アフリカから多くの難民が殺到した時、ハンガリーはいち早く国境を閉鎖した。冷戦時代に鉄のカーテンを切断し、旧東欧共産圏の解放に貢献したハンガリーが逆に欧州で最初に国境を閉じた。
ハンガリーのオルバン首相は16年10月、ハンガリー動乱60周年記念講演の中で「1989年は共産政権時代から民主化へ向かう転換期だった。ハンガリーは旧東独国民のためにその国境線を開放しなければならなかった。そして昨年と今年、ハンガリーは国境を閉鎖しなければならなくなった。なぜなら、自由を守らなければならなかったからだ。両者はコインの両面だ」という。簡単にいえば、前者は“自由を得る”ために、後者は“自由を守る”ためだったという。オルバン首相は講演の最後に、「ハンガリーは常に欧州の自由を守る側に立っている」と強調している。



