、黄海北道・智塔里出土(右)=李亨求著『渤海沿岸文明』から.jpg)
東夷族の指標的で高度な芸術品
自然条件に見事に適応
東アジアの新石器時代の代表的な文化様相を示す遺物の一つが櫛目文(くしめもん)土器だ。東夷(とうい)族による渤海(ぼっかい)沿岸文明の指標的な土器であり、朝鮮半島全域をはじめとして遼東半島、満州地域、遼西地域などで発見される。
櫛目文土器は土器の表面を櫛のような施文具(せもんぐ)でもってさまざまな線を引いた土器だ。初めはヨーロッパのカムケラミックと似た土器が、満州と朝鮮半島からも出土し、日本の藤田亮策(りょうさく)がこれを櫛文土器または櫛目文土器と翻訳。半島の土器をこのカムケラミックがシベリアを経由し東伝して生まれたものとみた。こうした見方を踏襲する研究者は今も多い。
櫛目文土器は底面が少し平たいか、とがった形態をしている。朝鮮半島の代表的な遺跡として、北朝鮮では、鴨緑江流域の美松里(びしょうり)遺跡と豆満江流域の西浦項(せいほこう)遺跡、大同江流域の智塔里(ちとうり)遺跡が有名だ。南朝鮮では、漢江流域のソウル・岩寺洞(がんじどう)遺跡がよく知られており、江原道・文岩里遺跡、釜山東三洞(とうさんどう)遺跡などから出土している。また、河北省の磁山(じざん)遺跡、河南省の裴李岡(はいりこう)遺跡でも櫛目文土器が出土している。さらには渤海沿岸から一つは沿海州に行き、一つは日本海側へ下っていき、朝鮮半島から日本へ渡っていった。
この土器について、韓国の李亨求(イヒョング)・鮮文大学校教授(考古学)は「とがった底を使用したのが比較的多い。その当時の人々は砂が多く積もった河のほとり地域で生活したためにそのような土器を使用したのだ」(『渤海沿岸文明』、韓国、2015年)と考える。また「特に朝鮮半島の櫛目文土器の表面に文様を施文する手法は、この時期のどの地域の土器よりも優秀だ。胎土が美しく柔らかいため、早くから高度の芸術として出現した」という。
「施文に先立って丁寧な器面調整を行い、一つのキャンパスのように一つの画面と考えてそれを描いて埋めた。扇形に広げてみると、陽光のようにジグザグに頂点から広がるように文様を施文する。ある土器はとがった底の先部分まですき間なく描いている」
ソウル大学の故金元龍教授は『韓国考古学概説』(1973年)で「(シベリアの)櫛文土器のエニセイ地方出現はセルボ期(前3000年年代)であるために、我が国の櫛文土器の上限年代はそれ以上に行くことはできない」とし、朝鮮半島の櫛目文土器がシベリア・エニセイ川流域から渡ってきたと考えた。
しかし1980年代後半になって、渤海沿岸地域で発見された櫛目文土器の編年が前3000年~5000年にさかのぼる事実が分かった。「シベリア土器とは、器の高さと口の直径の比率が大きく違い、施文方法も異なっている」(李教授)
では、この土器文化を担った人々はどこから来たのだろうか? 1990年代に、平壌市の龍谷洞窟遺跡から旧石器時代から新石器時代、青銅器時代まで生きていた痕跡が確認された。旧石器、新石器時代の人骨や、櫛目文土器が出土した。同じ洞窟で継続して生活し、旧石器人が新石器人として成長発展してきたことを物語っていた。
李教授は「シベリアから移住してきて、新石器人が旧石器人と交差したのではないことを立証する。人々が気候や自然環境・地理条件に極めて上手に適応し発展してきた結果である」というのである。
(市原幸彦)



