迫害乗り越え「当たり前」に

沖縄の本土復帰50周年を迎えた5月15日、自衛隊も配備から50周年を迎えた。配備に向けた環境整備から実際の配備までの間、激しい迫害を受けたが、それらを乗り越えて現在がある。沖縄の自衛隊誘致を実質的に一任された石嶺邦夫氏が自衛隊沖縄地方協力本部が主催する記念講演会で50年間を振り返った。(沖縄支局・豊田 剛)
共感得た毅然とした姿勢
1969年の日米首脳会談で沖縄返還が原則合意されると、沖縄の一部勢力が訴えてきた安保反対や無条件全面返還が実現しないことに加え、自衛隊配備までも決まったため、沖縄では激しい自衛隊配備反対運動が展開された。「沖縄への自衛隊配備はゼロ、むしろマイナスからのスタートだった」と石嶺氏は表現した。
石嶺氏は教員を経験した後、1957年から3年間、陸上自衛官として第8混成団第12普通第1大隊重火器中隊(鹿児島県霧島市国分)に勤務した。帰沖して銀行に勤めると、西部方面総監の荒武太刀夫(あらたけたちお)陸将の命を受けた自衛官が訪ねてきた。
その際、①自衛隊協力・関係団体の設立②自衛官募集③自衛隊駐屯地設立の広報活動――の三つの要請を受け、引き受けた。
自衛隊に対する風当たりがきつい中ではあったが、69年9月に23人の自衛隊OBが集まって沖縄隊友会を結成。続いて同年10月に父兄会(現在の家族会)、72年3月に自衛隊協力会(現在の防衛協会)を発足させた。
72年5月15日前後、自衛隊の移駐が始まると県民の怒りはさらに高まり、「あちこちで反対運動、抗議活動。日本軍帰れのシュプレヒコール、反自衛隊事案が続発した」(石嶺氏)。その一例を挙げると、▼住民登録拒否(保留)▼ごみ処理拒否▼自衛官募集協力の拒否▼住宅入居の拒否▼飛行場使用の拒否▼宮古と八重山での入港拒否▼体育大会の参加拒否▼隊員車両の焼き討ち▼農業支援要請の撤回▼自衛官家族のPTA活動の妨害――だ。石嶺氏はこれら全てを目撃した。
配備から10年経(た)っても反対運動が続いていた。当時、配備10周年を記念したパレードが行われたが激しい阻止行動にあった。
「自衛隊音楽隊によるパレードを阻止しようと1000人ほどの反対派が赤旗の竿(さお)で隊員を突くなどして妨害したが、隊員はびくともせずに堂々とパレードした。さすが自衛隊と感激し、沿道の人々から拍手された。こうした毅然(きぜん)とした姿勢は共感を得たのではないか」
当時の様子をこう振り返った。
沖縄本島北部の名護の自衛官募集事務所の入り口のシャッターの鍵穴にセメントを塗って開けられないようにされる事件もあった。当時の自衛隊沖縄地方連絡部の初代名護募集事務所長は落合畯(たおさ)海将補だ。落合氏は、沖縄戦で海軍司令として最期を遂げる前に沖縄県民への配慮を乞う電報を打った大田実中将の息子だ。「あなたのお父さんの電報のおかげで沖縄は助けられている。里子に出された立場の県民の苦しみも分かってくださいね」と。落合氏は養子に出された身として、同様に県民に飛び込んで自衛隊に理解を求めるために働く決心をしたという。
石嶺氏は「今は自衛隊がイベントをすると満員になる。生徒や児童が共演してくれる。感謝状までもらえる。50年前は当たり前ではなかった。当たり前のことを引き続き、当たり前であり続けられるようにしたい」と締めくくった。
なお、沖縄県の玉城デニー知事は3日、陸上自衛隊が実施している緊急患者空輸が1万回に達したことを受け、県庁で陸上自衛隊第15旅団の井土川(いどがわ)一友旅団長に感謝状を手渡した。
南西諸島は世界一重要な地域
元陸上自衛隊西部方面総監の番匠幸一郎氏

元陸上自衛隊西部方面総監の番匠幸一郎氏は自衛隊沖縄地方協力本部創立50周年記念の講演会で講演した。以下は講演要旨。
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今、世界の安全保障で最も大事な国は日本。アメリカが脅威としているのは中国、ロシア、北朝鮮、イラン。そのうち3カ国と接しているのは日本だけだ。核兵器の谷間にあるのが日本。中国が主張する九つの海洋への出口のうち、五つは日本を通る。そのうち、四つは南西諸島にある。
南西諸島は日本、地域、世界の安全にとって重要になる。地政学的に世界の平和と安定の要。自由で開かれたインド太平洋構想の価値を体現する所が沖縄だ。だからこそ、スクランブル警戒監視、宇宙、サイバー、テロ、自然災害などの脅威に対処しなければならない。沖縄戦を教訓に、二度と国民を守ることに失敗してはならない。
ウクライナの最大の教訓は戦争を起こさせてはいけないということ。自分の国を命懸けで守る気概、リーダーの行動が大事になる。平和と安全は自らつくるもの。すなわち、戦わずに勝つ、すなわち抑止力を高めることが重要になる。
(談)



