快適な住まい 自ら設計
随所に合理性と美意識
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文豪・志賀直哉は、生涯何度も引っ越しをしたが、奈良市の高畑には直哉自身が設計した旧居が残っている。学校法人奈良学園セミナーハウスとして一般公開されている旧居を訪ねた。
直哉は大正14年、学習院以来の友人で画家の九里四郎に誘われ、それまで住んでいた京都郊外の山科から奈良市幸町に移る。奈良が気に入ったとみえ、昭和4年、新築した高畑の家に入り、昭和13年まで9年間を過ごすことになる。直哉40代半ばから50代半ばの心身共に充溢(じゅういつ)した時期である。
奈良には直哉を慕って、瀧井孝作一家、武者小路実篤一家、網野菊、小林秀雄、尾崎一雄も転居してきた。地元の人々も加わり、自然、志賀家はこれらの人々の社交場となり、「高畑サロン」と呼ばれる。
畑は、東大寺や奈良公園の南方にある閑静な屋敷町。春日山麓が迫り、近くには新薬師寺もある。旧居は、直哉自らが設計し、京都の数寄屋大工棟梁(とうりょう)が建築した。床面積134坪で、数寄屋造りを基調としながら洋式も取り入れたユニークな邸宅だ。
案内に従い、2階の客間に入ると、障子窓の向こうに若草山、御蓋(三笠)山が望まれ、見事な借景となっている。実に気持ちのいい部屋で、来客もここでずっと歓談していたくなったろうと思わせる。
茶室はもちろん、書斎や廊下など、船底天井、葦(あし)の天井、蔀戸(しとみど)など随所に数寄屋造りの技法が用いられている。その一方で20畳もある食堂は、障子戸に囲まれた部屋に大きなテーブルと椅子が置かれる和洋折衷式。15畳のサンルームは、床に特注の塼(せん)を敷き詰めた民芸風だ。
このサンルームと食堂が「高畑サロン」の中心となるわけだが、これらの部屋は、どう見ても多数の来客を想定したものだ。阿川弘之は、『志賀直哉』で、「文壇といふものとはなるべく離れて自分のマワリに文壇を作るくらいの気でゐたい」と書いた志が生きていたのだろうと述べている。
台所もたくさんの家族と来客を迎えただけあって10畳ほどの広さがあり、ガスや冷蔵庫など当時最新式の設備が設けられていた。ちょっと驚いたのは、台所と食堂がハッチでつながるようになっており、今はやりのダイニングキッチンの様式を先取りしていることだ。直哉の合理的な思考と美意識が随所に反映されている。
仕事面で高畑時代は、「万歴赤絵」「菰野」などの短編の名作が書かれ改造社版の全集の刊行があったものの、多作とは言えない。もともと寡作(かさく)の直哉が、千客万来状態では、多作は望むべくもないだろう。しかし、この高畑時代、直哉の代表作で唯一の長編小説『暗夜行路』が完成したことは大きい。
尾道時代から書き始められ、赤城、我孫子を経て京都、山科を転々としながら、25年目にしてようやく完成させた。晴朗な奈良の風光と静かで快適な住まいがそれを助けたに違いない。また、多数の来客や増える家族の面倒を見る康子(さだこ)夫人の奮闘もあった。『暗夜行路』を完成させた翌年の昭和13年、直哉一家は奈良を引き上げ、東京に移る。
(特別編集委員・藤橋進)



